薩摩藩|西郷隆盛,大久保利通を輩出した雄藩

薩摩藩

薩摩・大隅2国を領有する大藩。正式名称は鹿児島藩である。77万石。藩主の島津氏は鎌倉時代から摂関家領島津荘の地頭職、薩摩国の守護職に補任された家である。義久の時代に秀吉に服し、島津家久の代に琉球を服属した。幕末に島津 重豪(しまづ しげひで)や島津 斉彬(しまづ なりあきら)など幕末を代表する名君を出し、財政の再建や軍事力の近代化を行い、雄藩となった。島津斉彬の弟である島津久光が公武合体論を推し進めた。幕末には長州藩と盟約を結び、倒幕派を再建した。西郷隆盛大久保利通小松帯刀など優秀な人材を輩出した。

西郷隆盛

西郷隆盛

調所広郷

調所広郷は、天保期の財政担当家老として活躍し、財政難で苦しむ薩摩藩を立て直した。約500万両の借財を250年賦返済、奄美三島特産の黒砂糖の専売、琉球との密貿易で財政再建を進めた。財政の健全化は、明治維新の原動力となった。

島津斉彬

1851年、家督を継いだ島津斉彬は、日本最初の洋式帆船「伊呂波丸」(いろはまる)の建
造や集成館と呼ばれる洋式工場群を創設し、反射炉建設、火薬、大砲、ガラス製造など多岐にわたる産業の振興をはかった。日本の近代化の下地を作った。

集成館

薩摩藩が1852年に鹿児島磯ノ浜にもうけた洋式工場群で反射炉、ガラス工場、造船所があり、兵器や陶磁器などの製造を行い、日本の殖産産業の先駆けとなった。

蒸気船の製造

従来、『武家諸法度』により大型船を禁じられていたが、嘉永6年(1853年)に老中阿部正弘(あべまさひろ)と林大学は各藩に許可を出した。安政(1855年)、薩摩が初の国産蒸気船、雲行丸を製造し、試運転を置き品川沖で行った。1849年から基礎技術として『水蒸船説略拾遺』の構造を元にした蒸気機関が製造されていた。

島津忠義

島津斉彬が死去すると弟である島津久光の子、島津忠義が藩主となったた。島津忠義は、大久保利通ら尊攘派の下級武士の団体「誠忠組(精忠組)」と組み、藩政を掌握。小松帯刀大久保利通を登用し、西郷隆盛を流刑地から呼び戻すなどの、後に幕末・明治に活躍する人材を登用した。殖産政策では、イギリス人技師の指導の下、紡績工場を建設し、長崎の貿易商トマス・グラバーから様式の武器の輸入なども行った。

誠忠組(精忠組)

西郷隆盛大久保利通、有馬新七らで構成された組織。安政の大獄と呼ばれる弾圧を行った大老の井伊直弼や坂井忠義らを討つべく脱藩を企てたが、藩の分裂を懸念した島津久光がこれをとどめた。

寺田屋事件(寺田屋騒動)

1862年3月、島津久光は公武合体を孝明天皇に進言するため1000人の武士を率いて上洛した。この上洛倒幕のための挙兵と解釈した、尊攘派の志士らが倒幕の兵を挙げようと京都、大坂に集合したが、「公武合体」を基本戦略であった島津久光はそれを受け入れる異ができず、伏見の船宿、寺田屋に集まって挙兵の準備をしていた薩摩藩の有馬新七らを島津久光の使者が幕政改革の妨げになるとして斬りつけた。(寺田屋騒動

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