菅原道真|文官でありながら右大臣になった公卿

菅原道真

菅原道真は平安時代の公卿である。『類聚国史』を編述した。讃岐国の国士の出身で、後ろ盾を持たない文官(学者)であったが、宇多天皇に信任され、右大臣にまで昇りつめる。遣唐使の中止を進言するなど朝廷内でも存在感があったが、藤原氏の諫言(かんげん)により左遷される。

菅原道真

菅原道真

目次

菅原道真の略年

845年 文章博士・菅原是善の子として生まれる
891年 蔵人頭に任じられる
894年 遣唐大使に任じられるが、これの廃止を建議し、認められる
897年 宇多天皇が醍醐天皇に譲位し、上皇となる
899年 右大臣となる
901年 大宰府に左遷
903年 大宰府で死去

藤原基経批判

阿衡の紛議で藤原基経が宇多天皇と衝突した際、当時、讃岐の国司に過ぎなかった菅原道真は藤原基経にたいし諫言(かんげん)を試みた。また、翌年、京都で菅原基経が政務放棄という形で宇多天皇に圧力をかけると、長文の意見書を送ったと言われている。この行動に対し、宇多天皇は藤原道真へ恩義を感じ、人事的に優遇するようになる。

異例の人事

4年後、讃岐の国司から都に戻ると、菅原道真は蔵人頭に抜擢される。学者でありながら異例の人事であった。さらに遣唐大使にも任命されるが、唐が衰えていることを理由に遣唐使の中止を進言した。

大宰府に左遷

55歳で右大臣に昇進することとなるが、菅原道真が学者の出であることに対し、周囲の不満や反感を募らせた。宇多天皇が政治から離れてから2年後、901年(昌泰4)、藤原時平らに冤罪をかけられ、大宰府に左遷された。その後、失意のうちに死去する。

崇拝

菅原道真の死後、藤原時平をはじめ藤原氏に早逝する人が続出した。さらに雷雨など異常発生により、多くの死者が出るた人々は、失意のうちに左遷された菅原道真の怨霊の仕業として恐怖し、菅原道真は天神として祀られるようになった。