秦|戦国七雄を倒し、中国を統一した大国

秦は、前8世紀、今の陝西省の地にあって、周王から諸侯になった。戦国七雄の中ではもっとも遅く現れた。清水にそってしだいに東へ移動しながら勢力を拡大していった。戦国時代初め、孝公(位前361~前338)のとき、都を成陽(陝西省西安市北西、渭水北岸)に移し、法家の商鞅(?~前338)を用いて富国強兵政策をおこない中央集権化をはかった。その後、秦は戦国の七雄のうちでもっとも強大となり、秦王の政(前259~前210、位前247~前210)のとき、東周および東方の6国を次々に滅ぼして、前221年に中国を統一した。

目次

咸陽

咸陽は、陝西省中部、清水盆地の中心都市である。考公が前350年に遷都して以降、秦の都となった。現在の西安付近である。

秦の制度

秦は商鞅による富国強兵政策が実り、中国統一への制度的基盤が作られた。主な改革は県制による、農民の直接的支配、いくつかの農民を一単位にして連帯責任を負わせる、身分に関係なく武功をたてたものに土地や財産を与えるなどして、国力の基盤を作った。

皇帝

秦の始皇帝は、春秋・戦国時代を経て、中国で初めて中国を統一した秦国の王である。名は政というが、煌々たる上帝の意味で皇帝と称し、皇帝の始まりという意味で始皇帝と名乗った。

秦の始皇帝

秦の始皇帝(前259~前210)は、第3代秦王(在位前247~前221)である。地上初めて中国の統一を完成し、中国初代皇帝となった(在位前221〜前210)。法家思想に基づく中央集権体制を確立するため、郡県制の施行、量衡・文字・貨幣の統一、言論・思想の統制、民間の兵器の没収、富豪の首都強制移住、阿房宮・陵墓の造営などを進めた。また、匈奴を防ぐため万里の長城を修築し、南越方面を征服して中国東北よりベトナム北部に及ぶ大帝国を形成した。

法家の李斯(?~前210)

法家の李斯(?~前210)は秦の統一後、法治主義を推し進め、中央集権を進めた。中央官制では、承相(行政)・大尉(軍事)・御史大夫(監察)をおいてそれぞれ権力を分立させている。

郡県制

郡県制によって地方の支配をすすめた。従来続いていた、周の封建制を廃して、統一以前から秦の領土で、すでに実施されていた郡県制を征服した領土に採用していった。全国を36の郡に分け、(のちに新領土や分県により48郡になった)、それぞれの都には守(行政)・尉(軍事)・監(監察)、その下の県には令(行政)・尉(軍事)などの官吏を中央から派遣し統治にあたらせた。

  • 太尉:軍事を統轄する最高官。
  • 御史大夫:官吏を監察する長官。

兵器の没収

庶民の反乱を防ぐ目的で庶民の兵器を没収して都の咸陽に集め、全国のおもな都市の城壁を破壊した。

経済政策

経済政策はについては、12万戸といわれる富豪を咸陽に集め一極集中を行った。また、これまで各国で様々な異なっていた制度を統一し、度量衡・貨幣(半両銭の鋳造)・文字(小篆)を、車軌(車軸の長さ)の統一の一本化をはかった。とくに文字の統一はのちに現代の漢字の原型となっている。

焚書坑儒

秦国は思想弾圧政策である焚書坑儒を行った。法家の李斯と儒家との政治摩擦の中で、李斯は、儒家による周の封建制復活の動きに対すると批判し、前213年、医薬・占い・農業技術書以外の書物を焼かせ(焚書)、翌年、儒家のうちに皇帝を誇るものがあったことで、咸陽に居住する儒家を捕らえて穴埋めにし(坑儒)、言論・思想の統制をはかった。このことで古典を重視する儒家が淘汰され、秦の始皇帝や皇帝に仕える独裁体制が強化され、しだいに暴走していく。

北への侵攻

秦は、さらに北へと勢力を伸ばすため、将軍の蒙活(?~前210)に命令し、オルドスの匈奴を攻撃してこれをゴビの北方に退けるとした。始皇帝は、反対意見を退け、無用に戦線を拡大したため、庶民に大きな被害が出た。

万里の長城

万里の長城は、東の遼東(遼寧省遼陽市)から西の臨とう(甘粛省岷県)におよぶ1万余里(4000km余)にわたる城壁で宇宙から見ることができる人口の建造物である。戦国時代に北辺の燕・趙などが匈奴への対策として、築いていた長城を修復や増設などを行った。現存のものは明代に大修築されたもので、始皇帝時代よりかなり南に位置している。

南への侵攻

秦は南に対しては、南越に遠征して華南・ベトナム北部にまで領土を広げた。統治した場所を、南海・象(しょう)・桂林(けいりん)の3郡とした。

兵馬俑

秦の始皇帝の死後、魂を守るべく秦始皇帝陵の東1.5キロ付近に、8000体にのぼるという陶製の兵や馬の人形が作られた。1974年に発見されたが、今世紀最大の発見とされる。

阿房宮

阿房宮は、始皇帝が成陽に造営させた大宮殿。未完成のまま項羽によって破壊された。

滅亡

秦は、秦の始皇帝により、万里の長城、阿房宮、秦始皇帝陵、兵馬俑など、無理のある土木工事が大々的に行われた。そのため、民衆は貧窮し、始皇帝が病死、二世皇帝胡亥が即位すると、翌前209年の陳勝・呉広の乱をきっかけに、各地で反乱が勃発した。瞬く間に秦は解体され、前206年、わずか15年で滅亡を向かえた。

劉邦と項羽

秦の始皇帝が死亡し、各地で反乱がおこったが、その中には、のちに漢の高祖となる劉邦、楚の貴族出身の項羽も含まれていた。


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