秦の始皇帝|春秋・戦国時代、中国を統一した覇者

秦の始皇帝

秦の始皇帝(~紀元前221年)は、の王に即位してから、おおよそ21年で中国全土を統一させた。圧倒的な軍事力と優れた統治力を背景に中国全土を500年の戦乱の世を終わらせた。しかし、統一後は、独裁者としての残酷性がすすみ、民衆を弾圧した。秦の始皇帝については、唯一、司馬遷の『史記』に記されている。

兵馬俑

兵馬俑

西安から西の甘粛省天水の、標高1500mmの山間、秦亭村が、の発祥の地といわれている。ここでは人々は古来から農業と放牧で遊牧的な暮らしをおこなっている。紀元前八世紀頃は、文明の中心は黄河中流域にあったが、紀元前4世紀の戦国時代にはいると、これまでのの台頭が始まる。は中国大陸のもっとも西側にあり、そこから韓、魏、趙。それを取り巻くように、南には楚、東は斉、北は燕が支配していた。

政の生誕

紀元前259年、政(のちの秦の始皇帝)が王族の子として誕生するが、政の父である子楚は、彼の側近である呂不韋の愛人を妻にした。その女性はすでに妊娠しており、それが政であった。つまり、政の実の父は呂不韋である、といわれている。なお、戦国時代では互いの戦争を避けるため、お互いの皇子を交換して人質として住まわせるということがあった。そのため子楚は、趙の邯鄲で生まれた。

子楚の帰郷

は趙に攻め入り、政らがいる邯鄲を包囲する。そのため政は周囲の趙の人間から虐げられていた。また、呂不韋が子楚を皇帝にすることの約束を引き換えに、政や母を残したまま、子楚をつれ趙を脱出する。に戻るのはそれから6年であった。

即位

子楚は王に即位して2年で急死し、政は呂不韋の後援の下、紀元前247年、13歳での王に即位する。政を補佐し、王位まで支えたのは、実の父親といわれる呂不韋である。

秦王の人柄

秦王は鼻筋が通り、目は切れ長、胸は鷹のように突き出している。その声はあたかも山犬が吠えているようだ。恩少なく虎狼の心を持つ。もし秦王が世界を制覇したら万民は皆その虜囚となるだろう。心許せない人物である。『史記』

呂不韋

呂不韋はもともと韓の商人出身であったが、鉄器による生産革命と中国全土での盛んな交易により莫大な資産を形成した。膨大な資金力を背景に政を補佐し、政治に深く介入するようになる。政が13歳で王位に就く頃、事実上、呂不韋が実権をにぎっている状況にあった。

不義密通

政が成人になるにつれ、実権を握る呂不韋が邪魔となっていく。紀元前238才、政が21才の頃、政の母親が愛人をもち、不義密通が発覚し、ひそかに二人の子どもをもっていた。政にとっては自らの地位を脅かしかねない事態となる。さらに呂不韋がこの事実を知りながらそれを隠していたことがわかると、政は激怒し、二人の兄弟を死刑にした。さらに自らの母親は咸陽から辺境の地へ追放、母の愛人はさらし首にして極刑、またこのことを知りながら隠していた呂不韋にも向けられ、紀元前237年、呂不韋を罷免し、実権を完全ににぎった。辺境に左遷された呂不韋は、その後、毒をあおり自害した。

韓非子

紀元前233年、思想家の韓非子を好んだ政は、韓非子に会えれば死んでもいいと、韓非子を咸陽にまねき、その思想に大きく傾倒した。政は、厳密な法体系と法を破る者に対する厳罰主義を採用し、この中央集権によって国力を強化していく。

君主の災いは人を信じることからはじまる。・・・君主、ただ法に則り行動すべし。法弱ければ国は弱わし、法強ければすなわち国は強し。(『韓非子』)

韓・趙の征服

は、紀元前230年に韓、紀元前228年に趙を滅亡に追い込み、そこの領土をの制度の中に取り組み、またの人間を移住せることによって征服していった。

燕による暗殺未遂

韓と趙を追い込んだことで、国境を隣におくことになった燕は、紀元前227年、降伏を装い、暗殺者を送り込んだ。暗殺者の名は荊軻といい、燕の土地を計上するとして、政の目の前で、中国の地図が開かれていくが、そこには合口と呼ばれる短刀が隠されていた。政に襲いかかるが、の法では壇上に武器をもってあがることは許されていないため、側近たちは、ただ見守るしかなかった。結果、政はみずから剣をとり、暗殺者を切りつけ難を逃れた。

燕の征服

暗殺をきっかけに燕を攻撃する大義名分をあたえ、紀元前226年、が燕の都を攻略し、は刺客を送り込んだ燕の豪族を討ち取る。これにより、中国大陸のパワーバランスが崩れ、が優勢する。は楚を滅亡させたあと、紀元前222年、東方に逃げていた燕を攻め、燕を滅亡させた。

魏の征服

紀元前225年、魏を征服する。

楚の滅亡

魏を征服したことで南の大国である楚が唯一のに大国できる国家であった。楚の攻略に若い将軍に20万の軍勢で楚を攻撃させたが、所詮は勝利したものの、反撃にあい、攻略できなかった。代わって王翦はの兵力のすべてである60万の兵力を求めた。続いて王翦は、田畑や豪華な邸宅を授かりたいと政に求めた。この大胆な申し出に周りのものはの怒りを買うのではと恐れたが、政は大笑いし、王翦に任せたという。王翦は60万の兵力を求めると謀反の疑いがかけられることを恐れ、わざと財産をねだり謀反の意志がないことを示した。王翦率いた軍隊は、長期戦の末、楚を攻略し、紀元前223年、楚を滅亡させた。

斉の滅亡

紀元前221年、は斉を滅ぼし、中国を統一を果たし、ここで始皇帝を名乗るようになる。

始皇帝

政はこのとき中国史で初めて皇帝を名乗るようになる。皇帝は、煌々たる上帝の意味で、始めの上帝という意味で始皇帝を名乗った。秦の始皇帝は、ここからが代々受け継ぐことを夢見たが、わずか1代しか持たなかった。

の王は自ら皇帝を称す。
はじめの皇帝、始皇帝を名乗る。
以後二世、三世と万世にいたり、これを無窮に伝えん。

泰山

紀元前219年、始皇帝は中国大陸を統一した秦の始皇帝は、その支配の顕示のため中国中の領土を巡る旅を出る。咸陽から東へ向かい泰山を目指す。始皇帝は、山東省の泰山に向かうが、泰山は古代中国で、不老不死の山としてあがめられていた。秦の始皇帝は、偉大な王にのみ与えられた封禅という儀式を行った。自らを神であると宣言し、その生命の永遠を求めた。

琅邪郡

泰山からさらに東に進み、海に面した琅邪郡(ろうやだい)に向かう。ここでは初めて海を見た。始皇帝は、このとき41歳であった。始皇帝にさえ、大海原には自分の力は及ばず、無力感を覚えた。ここで神山術の徐福と名乗る男と出会い、海の彼方に仙人が暮らす三つの山がある。仙人への贈物を私に与えてくださるなら、不老不死の薬を手に入れてみせましょう。徐福に財宝を与え、不老不死の薬を探すよう命じた。徐福との出会いをきっかけに神山術の使い手(方士)を召し抱え、不老不死を求めるようになった。

湖南省湘山

秦の始皇帝は、自ら神と名乗り、不老不死を求めるにしたがい、常軌を逸するようになった。長江の南にそびえる湖南省の湘山にて嵐に遭い、長江が氾濫した。秦の始皇帝は、自分の行く手を遮る嵐の原因を湘山に祭られる神の仕業として、湘山の山々をすべて切り落とさせた。湘山は一面赤土となり、緑あふれる湘山が罪人の色である赤色になり、この横暴に対して湘山を信仰していた人々を激怒させた。

万里の長城

秦の始皇帝は、匈奴への対抗として、万里の長城を作ったことで知られている。既存の長城であり、全長5000kmにのぼる。

匈奴

匈奴は中国の北に位置し、春秋・戦国時代の頃から勢力を増している遊牧民族の国家である。たびたび中国大陸への侵攻を図り、侵略行為を繰り返していた。秦の始皇帝のもとへ、匈奴によって滅ぼされるという予言が届き、その予言によって匈奴を懸念した秦の始皇帝を恐れさせ、再三にわたり匈奴を攻め込んだ。匈奴への対策として5000kmに及ぶ万里の長城や北への一本の直道を作らせ、民衆や兵士が貧窮した。

始皇帝陵

始皇帝陵

始皇帝陵

始皇帝陵は、中国の古都、始皇帝が自らのために築いた墓であり、秦の始皇帝が13歳のころから作り始め、40年かけて作らせた。高さが53m、350m四方で中国皇帝の中でも最大級のものであった。70万人の人間が動員されたと記録されている。

募室の天井には星座が描かれ、永遠に明かりが途絶えぬよう、人魚の油がともされていた。川や海が作られ、機械仕掛けで水銀が絶えず流れるようにしてあった。

兵馬俑

兵馬俑

兵馬俑

兵馬俑は西案の北部に位置している。現代から2200年前に始皇帝が作らせたとされるの軍隊を表している。8000体の兵と馬の人形が並べられており、平均身長は180cmほどである。兵士はそれぞれ表情は異なっており、支配した様々な民族の兵隊が作られている。兵馬俑は始皇帝直属の親衛隊を模したものだったといわれ、中央の兵隊は鎧も兜もかぶっておらず、先法隊といわれる。馬が引く戦車には指揮官が乗り、後ろに続く歩兵集団を率いている様が表されている。

貧窮する国民

男子は畑仕事もできず、女子は糸を紡ぐことすらできない。
弱き者は道に倒れ、死人を弔うことすらできない

焚書坑儒

秦の始皇帝は自分の側近のひとつの勢力であった儒学者らに対して弾圧を行い、書を焼き払い、儒学者を生き埋めにした。また医学などに携わっていた方士も不老不死の薬を得ることができず、その犠牲に加わった。これを焚書坑儒といい、の崩壊を決定づけた。

暴走する秦の始皇帝を諫めた長男の扶蘇にたいし激怒し、扶蘇を匈奴と対峙する最前線に左遷した。紀元前213年、不老不死を求めた旅の途中で秦の始皇帝は病死してしまう。享年50歳であった。そこに立ち会わせた始皇帝の次男の胡亥、李斯、趙高は三名は供託し、秦の始皇帝の死を隠し、長男の扶蘇に対し自害を促すよう策謀した。したがって胡亥が次の皇帝に継ぐが、秦の国民はすでに貧窮しており、農民の反乱が起こり、紀元前206年、は崩壊する。