秦の始皇帝
秦の始皇帝(紀元前259年〜紀元前210年)は、中国史上初めて「皇帝」の称号を使用し、秦王朝を統一して中央集権体制を確立したことで知られている。彼の本名は嬴政(えいせい)であり、13歳で秦の王に即位してからおおよそ21年で中国全土を統一した。当初は宰相が実権を握っていたが、成長とともに自ら権力を掌握し、紀元前221年に圧倒的な軍事力と優れた統治力を背景に中国全土を統一し、初代皇帝となった。始皇帝は広大な領土を管理するため、中央集権化を推進し、行政区画の再編や法制度の統一を行った。統一後は、独裁者としての残酷な政策が進行し、民衆を弾圧した。秦の始皇帝についての詳細は、唯一、司馬遷の『史記』に記録されている。
秦
西安から西の甘粛省天水の標高1500mの山間にある秦亭村が、秦の発祥の地といわれている。ここでは、古来から人々は農業と放牧を行い、遊牧的な暮らしを営んできた。紀元前8世紀頃、文明の中心は黄河中流域にあったが、紀元前4世紀の戦国時代に入ると、秦の台頭が始まる。秦は中国大陸のもっとも西側に位置し、そこから韓、魏、趙が広がっていた。それを取り囲むように、南には楚、東には斉、北には燕が支配していた。
生涯
秦の始皇帝の人生は、中国史における大きな転換期に当たる。
紀元前259年|政の生誕
紀元前259年、政(のちの秦の始皇帝)は趙国(現在の中国河北省)において、秦国の王族であった子楚と趙氏の子として生まれた。王族の子であった子楚は、呂不韋の紹介で彼の愛人を妻にした。(あまり信憑性はないが、一説には、その女性はすでに妊娠しており、その子が政であり、政の実の父は呂不韋であるとされている。)なお、戦国時代には、戦争を避けるためにお互いの皇子を交換し、人質として住まわせる習慣があった。そのため、子楚は趙の邯鄲に住むこととなった。
子楚の帰郷
秦は趙に攻め入り、政らがいる邯鄲を包囲したため、政は周囲の趙の人々から虐げられていた。また、呂不韋は子楚を皇帝にするという約束を引き換えに、政やその母を残して子楚を連れて趙を脱出した。秦に戻るのはそれから6年後のことであった。
紀元前247年|父の死と王位継承
子楚が秦王として即位するが、わずか3年後の紀元前247年に死去する。政は呂不韋の後援の下、紀元前247年、13歳で秦の王に即位した。政を補佐しながらも、幼少であったため、実際の政治は事実上、呂不韋の権限に委ねられていた。
秦王(政,秦の始皇帝)の人柄
秦王は鼻筋が通り、目は切れ長、胸は鷹のように突き出している。その声はあたかも山犬が吠えているようだ。恩少なく虎狼の心を持つ。もし秦王が世界を制覇したら万民は皆その虜囚となるだろう。心許せない人物である。『史記』
呂不韋
呂不韋はもともと韓の商人出身であったが、鉄器による生産革命と中国全土での盛んな交易によって莫大な資産を築いた。その膨大な資金力を背景に政を補佐し、政治に深く関与するようになった。政が13歳で王位に就く頃には、事実上、呂不韋が実権を握っている状況であった。
紀元前238年|不義密通
政が成人するにつれ、実権を握る呂不韋が次第に邪魔となっていった。紀元前238年、政が21歳の頃、母親が愛人と不義密通していたことが発覚し、さらに二人の子どもがいたことも明らかになった。この事態は政にとって、自らの地位を脅かす可能性のある深刻な問題であった。さらに、呂不韋がこの事実を知りながら隠していたことが判明すると、政は激怒し、二人の兄弟を死刑に処した。母親は咸陽から辺境へ追放され、愛人はさらし首にされて極刑に処された。また、この事件を隠していた呂不韋にも怒りが向けられ、紀元前237年、呂不韋を罷免して実権を完全に握った。左遷された呂不韋は、その後、毒をあおって自害した。
紀元前233年|韓非子
紀元前233年、思想家の韓非子を好んだ政は、「韓非子に会えれば死んでもいい」と語り、彼を咸陽に招いた。その思想に大きく傾倒した政は、厳密な法体系と法を破る者に対する厳罰主義を採用し、中央集権による国力強化を推し進めていった。
君主の災いは人を信じることからはじまる。・・・君主、ただ法に則り行動すべし。法弱ければ国は弱わし、法強ければすなわち国は強し。(『韓非子』)
韓紀元前230年・趙紀元前228年の征服
秦は、紀元前230年に韓、紀元前228年に趙を滅亡に追い込み、その領土を秦の制度に組み入れ、さらに秦の人々を移住させることで征服を進めていった。
紀元前226年|燕の征服
燕は韓と趙を滅ぼしたことで、秦と国境を接するようになった。紀元前227年、燕は降伏を装い、暗殺者を送り込む。その暗殺者の名は荊軻であり、彼は燕の土地を献上するとして、政の前で中国の地図を広げたが、その地図には合口と呼ばれる短刀が隠されていた。荊軻は政を襲撃したが、秦の法では壇上に武器を持ち上がることが禁じられていたため、側近たちは対抗する術がなかった。結果として、政は自ら剣を取って暗殺を回避することができた。この暗殺未遂を契機として、紀元前226年、秦は燕の都を攻略する。その後、秦は楚を滅ぼし、紀元前222年には東方に逃げていた燕を攻め滅ぼした。
紀元前225年|魏の征服
紀元前225年、秦のは魏の首都大梁を攻撃し、堤防を破壊して洪水を起こし、都市を水浸しにして魏を降伏させた。これにより、魏は秦によって滅ぼされ、中国統一に向けた秦の支配はさらに進展した。
楚の滅亡
南の大国である楚は、唯一秦に対抗できる国家であった。楚の攻略に際し、若い将軍が20万の軍勢で攻撃を仕掛けたが、初戦は勝利したものの、最終的には失敗に終わった。代わって王翦が指揮を執ることになり、彼は秦の全兵力である60万の軍を求めた。さらに王翦は、田畑や豪華な邸宅を授かりたいと政に願い出た。この大胆な申し出に周囲は、王翦が政の怒りを買うのではないかと恐れたが、政は大笑いし、彼に全てを任せたという。王翦が財産をねだったのは、60万の兵力を求めることで謀反を疑われるのを恐れ、あえて財産を求めることで謀反の意志がないことを示すためであった。王翦率いる軍隊は、長期戦の末に楚を攻略し、紀元前223年に楚を滅亡させた。
紀元前221年|斉の滅亡
紀元前221年、秦は斉を滅ぼした。これにより、紀元前221年に中国を統一し、初の「皇帝」としての地位を確立した。政は「始皇帝」と名乗り、以後の中国の支配者に影響を与える強力な中央集権体制を築いた。このとき、中国史で初めて「皇帝」を名乗るようになった。「皇帝」とは、煌々たる上帝を意味し、始めの上帝として「始皇帝」を名乗った。秦の始皇帝は、秦が代々この地位を受け継ぐことを夢見たが、王朝はわずか1代しか続かなかった。
秦の王は自ら皇帝を称す。
はじめの皇帝、始皇帝を名乗る。
以後二世、三世と万世にいたり、これを無窮に伝えん。
紀元前219年|不老不死への探求
紀元前219年、中国大陸を統一した秦の始皇帝は、その支配を誇示するため、中国中の領土を巡る旅に出た。咸陽から東へ向かい、泰山を目指した。始皇帝が目指した泰山は、古代中国で不老不死の山として崇められていた。さらに東へ進み、海に面した琅邪郡(ろうやぐん)に向かい、ここで初めて海を目にした。始皇帝はこのとき41歳であったが、大海原の前では自分の力が及ばず、無力感を覚えたという。ここで神山術の使い手とされる徐福と出会い、彼は「海の彼方に仙人が住む三つの山があり、仙人への贈り物をいただければ、不老不死の薬を手に入れてみせましょう」と語った。始皇帝は徐福に財宝を与え、不老不死の薬を探すよう命じた。この出会いをきっかけに、神山術の使い手(方士)を召し抱え、不老不死を求めるようになった。秦の始皇帝は、自ら神と名乗り、次第に常軌を逸する行動を取るようになった。長江の南にそびえる湖南省の湘山にて嵐に遭遇し、長江が氾濫した。この嵐を自分の行く手を阻むものと感じた始皇帝は、湘山に祭られる神の仕業と考え、湘山の山々をすべて切り落とさせた。その結果、湘山は一面赤土となり、緑豊かな山が罪人の色である赤色に変わった。この横暴な行為に、湘山を信仰していた人々は激怒した。
匈奴
匈奴は中国の北に位置し、春秋・戦国時代の頃から勢力を増していた遊牧民族の国家である。彼らはたびたび中国大陸への侵攻を図り、侵略行為を繰り返していた。秦の始皇帝のもとに、秦が匈奴によって滅ぼされるという予言が届き、その予言に恐れを抱いた秦の始皇帝は、再三にわたり匈奴を攻め込んだ。さらに、匈奴への対策として、全長5000kmに及ぶ万里の長城や北へ延びる一本の直道を建設させ、これにより民衆や兵士が貧窮した。
紀元前213年|焚書坑儒
紀元前213年、秦の始皇帝は思想統制を図り、法家思想以外の書物を焚書し、儒家思想を持つ学者を処刑する「焚書坑儒」を実行した。これは、彼の側近の一部であった儒学者らに対して弾圧を行い、書物を焼き払い、儒学者を生き埋めにした事件である。また、医学などに携わっていた方士も、不老不死の薬を得ることができなかったため、その犠牲に加えられた。
紀元前213年|死
暴走する秦の始皇帝を諫めた長男の扶蘇に対し、激怒した始皇帝は、扶蘇を匈奴と対峙する最前線に左遷した。紀元前213年、不老不死を求めた旅の途中で秦の始皇帝は病死し、享年50歳であった。その死に立ち会った次男の胡亥、宰相の李斯、宦官の趙高の3人は共謀し、始皇帝の死を隠したまま、長男扶蘇に自害を促す策謀を企てた。その結果、胡亥が次の皇帝として即位したが、すでに秦の国民は貧窮しており、農民の反乱が勃発した。紀元前206年、秦は急速に崩壊し、中国は再び混乱の時代に入った。
主な政策
秦の始皇帝の政策には、中央集権化、法制度の統一、度量衡、貨幣、文字の統一、万里の長城、建焚書坑儒による思想統制、大規模な土木事業、不老不死の探求などがあげられる。
中央集権と法家思想
始皇帝の統治は、法家思想を基盤としていた。法家とは、法による統治を重視し、厳格な法律と罰則によって秩序を保とうとする思想である。これにより、貴族の特権を廃止し、官僚による統治を実現した。また、地方に対する中央の支配を強化するため、全国を36郡に分け、それぞれに郡守と呼ばれる役人を派遣して統治させた。この体制は、後の中国王朝にも大きな影響を与えた。
大規模な建設事業
始皇帝の治世では、いくつもの大規模な建設事業が行われた。その中でも最も有名なのは、万里の長城の建設である。万里の長城は、匈奴と呼ばれる北方の遊牧民族からの侵入を防ぐために築かれた防壁であり、彼の治世に大規模な拡張と強化が行われた。また、始皇帝は自らの権威を象徴するために、広大な陵墓を建設させた。この陵墓には、粘土で作られた兵士や馬などの陶俑が多数埋められており、現在では「兵馬俑」として知られている。
万里の長城
秦の始皇帝は、匈奴への対抗として、万里の長城を作ったことで知られている。既存の長城であり、全長5000kmにのぼる。
始皇帝陵
始皇帝陵は、中国の古都、始皇帝が自らのために築いた墓であり、秦の始皇帝が13歳のころから作り始め、40年かけて作らせた。高さが53m、350m四方で中国皇帝の中でも最大級のものであった。70万人の人間が動員されたと記録されている。
募室の天井には星座が描かれ、永遠に明かりが途絶えぬよう、人魚の油がともされていた。川や海が作られ、機械仕掛けで水銀が絶えず流れるようにしてあった。
兵馬俑
兵馬俑は西案の北部に位置している。現代から2200年前に始皇帝が作らせたとされる秦の軍隊を表している。8000体の兵と馬の人形が並べられており、平均身長は180cmほどである。兵士はそれぞれ表情は異なっており、支配した様々な民族の兵隊が作られている。兵馬俑は始皇帝直属の親衛隊を模したものだったといわれ、中央の兵隊は鎧も兜もかぶっておらず、先法隊といわれる。馬が引く戦車には指揮官が乗り、後ろに続く歩兵集団を率いている様が表されている。
貧窮する国民
男子は畑仕事もできず、女子は糸を紡ぐことすらできない。
弱き者は道に倒れ、死人を弔うことすらできない
思想統制と焚書坑儒
始皇帝は法家思想に基づいた中央集権的な統治を推し進めたが、その一方で他の思想や文化的伝統に対する厳しい弾圧も行った。特に儒家思想や古代の文化的・宗教的な習慣に対しては厳しい態度を取り、紀元前213年には「焚書坑儒」と呼ばれる事件が発生した。この事件では、儒教の書物や古典的な文献が大量に焼かれ、儒学者たちが処刑された。始皇帝は思想を統一し、反対意見を抑え込むことで強力な権力を維持しようとしたのである。
不老不死への追求
始皇帝は、自らの権力を永遠に続けたいという欲望から、不老不死の探求にも没頭していた。彼は道教に基づいた仙薬を求め、多くの方士を雇って不死の薬を探させた。伝説によれば、始皇帝は東の海にある不老不死の島々を探すために幾度かの探検隊を送り出したが、その成果は得られなかった。最終的に、彼は不老不死の夢を叶えることなく、紀元前210年に崩御した。