硝酸銀|写真と医療を支える銀化合物

硝酸銀

硝酸銀(しょうさんぎん、silver nitrate)は、化学式AgNO3で表される銀の硝酸塩である。モル質量は169.87 g/molで、常温では無色透明の結晶として存在する。水に非常によく溶け、溶液中で銀イオンAg+を放出しやすいことから、銀化合物の出発原料として最も広く使われている。写真感光材料、分析化学の試薬、鏡の製造、銀めっき、化学プラントの触媒調製など、用途は研究室から大規模工場まで幅広い。皮膚に付着すると黒く変色する性質もよく知られている。

「月の腐食剤」と呼ばれた歴史

ヨーロッパの錬金術では銀を月の象徴としていたため、硝酸銀は「ルナー・コースティック(lunar caustic、月の腐食剤)」と呼ばれた。13世紀にはアルベルトゥス・マグヌスが、銀を硝酸に溶かすと皮膚を黒く染める液体が得られることを書き残している。転機となったのは1727年である。ドイツの医師ヨハン・ハインリッヒ・シュルツェが、銀塩を含む液が光によって黒化する現象を見いだした。この発見はのちに銀塩写真の技術へと発展し、19世紀から20世紀後半まで写真産業を支える基盤物質になった。医療の分野でも、棒状に固めた硝酸銀がいぼの除去や止血に用いられてきた。

物理的・化学的性質

結晶系は斜方晶系で、加熱すると212 ℃付近で融解する。さらに温度を上げると約440 ℃で分解し、金属銀、二酸化窒素、酸素を生じる。水への溶解度は20 ℃で約216 g/100 mLにも達し、無機塩としては際立って高い。強い酸化剤でもあり、有機物と接触すると還元されて金属銀が析出する。皮膚が黒くなるのは、たんぱく質との反応で微細な銀粒子ができるためである。

項目 値
化学式 AgNO3
モル質量 169.87 g/mol
密度 4.35 g/cm3
融点 212 ℃
分解温度 約440 ℃
水への溶解度(20 ℃) 約216 g/100 mL
CAS番号 7761-88-8

製造方法

工業的には、金属銀を硝酸に溶かして製造する。希硝酸を用いた場合の反応は次のとおりである。

3Ag + 4HNO3 → 3AgNO3 + NO + 2H2O

濃硝酸を使うと反応は速くなるが、発生する気体は二酸化窒素NO2となり、銀1 molあたりの硝酸消費量も増える。原料の銀に銅が含まれていると硝酸銅が混入するため、再結晶によって精製する。高純度品では純度99.8 %以上が一般的で、試薬としての品質はJIS K 8550に規定されている。

代表的な化学反応

ハロゲン化物イオンと出会うと、すぐに難溶性の沈殿をつくる。塩化物イオンなら白色の塩化銀、臭化物イオンなら淡黄色の臭化銀、ヨウ化物イオンなら黄色のヨウ化銀が生じる。沈殿の色の違いは、高校化学でもハロゲンの定性分析に使われる。アンモニア水を加えて得られるジアンミン銀(I)イオンの溶液はトレンス試薬と呼ばれ、アルデヒドを還元剤とする銀鏡反応に用いる。

沈殿滴定への応用

塩化物イオンの定量では、0.1 mol/Lの硝酸銀標準液を用いる沈殿滴定が定番である。クロム酸カリウムを指示薬とするモール法では、当量点を超えると赤褐色のクロム酸銀が現れ、終点がわかる。工場排水やボイラー水の塩化物イオン測定は、JIS K 0101やJIS K 0102でもこの原理を基礎としている。

産業における用途

デジタルカメラの普及で写真用途は大きく縮小したものの、工業原料としての需要は今も根強い。主な用途を挙げる。

  • ガラス鏡の製造:ガラス表面に銀を化学析出させ、反射膜をつくる
  • エチレンオキシド製造用の銀触媒の調製:アルミナ担体に含浸させてから焼成する
  • 電子材料:銀ナノ粒子や導電性インクの原料
  • 抗菌材料:銀イオンを担持させた樹脂や繊維の製造
  • 分析試薬:塩化物イオンの定量や、ハロゲンの検出

エチレンオキシド触媒は銀の含有率が10〜20 wt%程度と高く、使用済み触媒から銀を回収し、再び硝酸銀に戻して再利用する仕組みが確立している。プリント配線や太陽電池電極に使う銀ペーストでも、粒子径を制御した還元析出の出発物質となる。

取り扱い上の危険性と法規制

日本では毒物及び劇物取締法により劇物に指定されており、販売には登録が必要で、保管庫の施錠や表示も義務づけられる。国連分類では酸化性物質(クラス5.1、UN1493)に区分される。眼に入ると角膜を傷つけるおそれがあるため、保護眼鏡と耐薬品性の手袋は欠かせない。可燃物と一緒に保管すると、火災の際に燃焼を激しくする。長期間にわたって銀化合物を摂取すると、皮膚が青灰色になる銀皮症(アルジリア)を起こすことがある。

現場での調達と保管のポイント

価格は銀の地金相場にほぼ連動する。銀相場が1 kgあたり10万円上がれば、硝酸銀の仕入れ値も数か月遅れで改定されるのが通例で、年間数十kg単位で使う工場では相場を見ながら発注時期を調整することも多い。試薬グレードの500 g瓶と工業グレードの25 kg缶では、グラム単価に数倍の差がつく。分析用には試薬特級、めっきや触媒用には工業品というように、用途ごとに使い分けるのが現実的である。

光で分解するため、褐色ガラス瓶に入れ、冷暗所に保管する。調製した標準液も1か月程度で濃度が変わるので、塩化ナトリウム標準物質でこまめに標定し直すとよい。ステンレス製の薬さじは長時間触れると表面が変色するため、計量にはポリプロピレン製やガラス製の器具が好まれる。

コメント(β版)