白鳳文化
大化改新(645年)から平城遷都(710年)ごろまでの白鳳時代に栄えた文化を白鳳文化という。天智天皇や天武天皇により、律令制度や天皇の権威が固まった時代で、天皇や貴族中心の華やかな文化が栄えた。また唐との交流から初期の唐の影響およびインドやペルシアの影響も見られる。
目次
仏教文化
中大兄皇子(天智天皇)は仏教に対して消極的態度をとったが、天武天皇・持統天皇は仏教に積極的に受け入れ、鎮護国家を説く仁王経(におうきょう)・金光明勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)の講説を行った。このため、白鳳文化では仏教文化が栄えるようになった。
唐文化
遣唐使を多く派遣し、唐文化の輸入が熱心であった。また、百済・高句麗の滅亡に際し、多くの渡来人が技術や文化をもって移民してきた。また唐の文化はインド・イランなど西方の芸術を豊かに取り入れた唐の影響を受け、白鴎文化は国際性に富み、清新で豊かな文化がつくりだされた。
金光明経
金光明経など護国経典を説く法会が全国で行われた。
薬師寺
680年、薬師寺は、天武天皇が皇后(持統天皇)の病気平癒のために発願し、十数年を費やして、文武天皇のとき完成した。藤原京につくられたが、718(養老2)年ころ、今の平城京の地に移された。薬師寺は、各層に差階をつけた3重の東塔は軽快なリズム感にみちている。
東院堂の聖観音像
東院堂の聖観音像はインドのグプタ王朝の影響を受けた、美しいたたずまいをした銅像である。
薬師寺の金堂薬師三尊像
薬師寺の金堂薬師三尊像は柔らかい表現の中に堂々とした威厳を保つ金銅像である。
興福寺仏頭
彫刻では、明るい表情の中にわずかに古式の笑みをただよわせる興福寺(奈良県)の金銅像である。
法隆寺金堂の壁画
法隆寺金堂の壁画は、唐を経てインドのグプタ朝芸術が影響している特徴を持つ。インドのアジャンター石窟群の壁画や中国の敦煌石窟壁の様式を取り入れられている。
高松塚古墳壁画
高松塚古墳壁画は1972(昭和47)年に発見された。奈良県明日香村にある終末期古墳で、直径18m,高さ5mの円墳。凝灰岩の切石を組み合わせた横口式石槨をもつ。
漢詩文
白村江の戦いののち、百済から大量の貴族・文人が亡命してきた影響から漢詩文が盛んになった。大友皇子や大津皇子の優れた漢詩は奈良時代後期にまとめられた『懐風藻(かいふうそう)』に収められている。
和歌
漢詩の影響を受けて、五七調を基調とする和歌の形式がつくられ、長歌・短歌・旋頭歌(せどうか)などの形式が定まった。天武天皇からは漢字を使って日本語表記する本格的な和歌が成立した。歌人としては、天智天皇・天武天皇・持統天皇・有間皇子・額田王(ぬかたのおおきみ)・柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)らが有名である。