班田収授法
班田収授法は律令国家の成立時に行われた土地の制度改革である。唐の均田法を参考に、それまでの屯倉・田荘などの私有地を廃止し、土地の公有を原則とした。土地は、田地・園地(畑)・宅地・山川藪沢に分類されたが、律令国家はとくに田地を重視した。
目次
班田収授法
田地のなかでも、口分田(くぶでん)の収授は六年一班とよばれるように、6年に1回つくられる戸籍において、受田資格を得た者に口分田を班給し、その間に死亡した者の口分田を収公するというものであった。
口分田は、6歳以上の人民に班給され、男には2段(1段=360歩)、女には男の3分の2、家人・私奴婢には良民の3分の1の割合で、郷戸ごとにまとめて戸主に班給された。口分田の売買は禁じられ、本人が死ねば次の班年のときに収公した。
- 良民男子:2段
- 良民女子:1段120歩
- 賤民男子:240歩
- 賤民女子:160歩
- 賤民のうち、官に属した陵戸・官戸・公奴婢:良民と同じだけの口分田
- 私家に属した家人・私奴婢:良民の3分の1
- 賤民のなかの身分の上下には関係しないこと
- 口分田は班年のときにだけ班給されるもの
条里制
条里制は、班田収授法を円滑に実施するために区間整理された制度のことをいう。統一的な企画による条里制地割りが全国的に施行され始めるのは、和銅から養老年間のころとされる。地割りの方法は、土地を碁盤の目のように水田地帯を6町(360歩=648m)の方形に区切り、東西に1里2里、南北に1条2条と数え、区切られた区画をさらに36の方形に区切って、その1区画を平と呼んだ。平はさらに10に細分されて、段となる。これが口分田計量の基準となり、その所在地は何条何里何坪と表示された。
戸籍や計帳
政府は戸籍や計帳に登録することによって、国家は公民を直接掌握することができ、さらに公民にまで律令国家の帰属意識を持たせることになる。班田収授法は戸籍や計帳によってもたらされたが、これは公民に生活の基礎を与える一方で、労役を中心とする人頭税を賦課する体制を整えた。
口分田以外の田地
- 位田・職田:位階・官職に応じて与えられる
- 功田・賜田:功労になり与えられる
- 神田・寺田:社寺に与えられる
- 乗田:口分田を班給して残った田地
不輸租田
田地は、租を納める輸租田であったが、神田・寺田と職田(郡司の織田は輸租田)は租が免ぜられた不輸租田(ふゆそでん)である。特に神田・寺田は私有地に近いもので、後の荘園につながった。
園地・宅地
園地・宅地は一般の戸口に対して永久に与えられたが、売買を許され、私有地に近い制度内容になっていた。
山川、原野、沼沢
山川、原野、沼沢は共同で利用されることになる。
唐の均田法
日本の班田収授法は唐の均田法を模範として設定されたが、後者が財政政策的であったことにたいし、前者は社会的政策的であった。均田制では口分田のほかに、子孫に伝えることのできる永業田が与えられたが、班田制では死後口分田はすべて国家に返還された。均田制では男子にだけ土地が班給されたが、班田制では女子にも班給された。均田制では18歳に達してはじめて田地を班給され、60歳になると均田の半額を返還することになっていたが、班田制では6歳になると班田され、年齢による差がなかった。