焼戻し脆性
焼戻し脆性(temper brittleness)とは、鋼を焼入れ後に特定の温度範囲で焼戻しを行った際、靭性が著しく低下する現象である。主に250〜400℃の温度域で生じる「低温焼戻し脆性(一段脆性)」と、450〜600℃付近で生じる「高温焼戻し脆性(二段脆性)」の2種類に分類される。合金元素の種類や含有量、焼戻し温度および冷却速度によって発生の程度が左右されるため、熱処理条件の設計において重要な考慮事項となっている。
発生メカニズム
焼戻し脆性の発生メカニズムは、脆性の種類によって異なる。低温焼戻し脆性は、焼入れによって得られたマルテンサイトを250〜400℃で焼戻す際、旧オーステナイト粒界やマルテンサイトラス界面に沿って炭化物(Fe3C)が薄膜状に析出することで、粒界強度が局所的に低下することが主因とされる。炭化物の析出形態が連続的な薄膜状になると応力集中が生じやすく、衝撃荷重に対して著しく脆くなる。高温焼戻し脆性は、450〜600℃の温度域でリン(P)、アンチモン(Sb)、スズ(Sn)、ヒ素(As)といった微量不純物元素が旧オーステナイト粒界に偏析することによって引き起こされる。これらの元素は粒界結合力を弱め、粒界破壊を促進するため、特に合金鋼で問題になりやすい。
低温焼戻し脆性(一段脆性)
低温焼戻し脆性は、炭素量が比較的高い鋼で顕著に現れる。焼戻し温度が250〜400℃の範囲にある場合、マルテンサイト中に固溶していた炭素が過飽和状態から析出し、特定の結晶面に沿って薄い炭化物薄膜を形成する。この現象はε炭化物からFe3Cへの転移過程でも起こりうる。一度この脆性が発現した鋼は、再加熱によっても完全に回復させることが難しい場合がある。低温焼戻し脆性の回避策としては、脆化温度域である250〜400℃を避けて焼戻し温度を設定するか、150〜200℃の低温焼戻しで高硬度を維持するか、400℃以上の高温で焼戻す調質処理を採用するかのいずれかが一般的である。
高温焼戻し脆性(二段脆性)
高温焼戻し脆性は可逆的な脆性であり、脆化した鋼を600℃以上に再加熱して急冷すると靭性をある程度回復できる点が低温焼戻し脆性と異なる特徴である。クロム鋼(Cr鋼)、クロム・マンガン鋼、ニッケル・クロム鋼などの合金鋼に多く見られ、純炭素鋼では比較的発生しにくい。脆化は450〜600℃の温度域に長時間保持される場合や、この温度帯を徐冷通過する際に著しく進行する。旧オーステナイト粒界への不純物元素の偏析が本質的な原因であり、粒径が大きいほど単位体積あたりの粒界面積が小さくなるため、偏析濃度が高まりやすく脆化が促進される。
脆化促進元素と抑制元素
高温焼戻し脆性に影響する合金元素には、脆化を促進するものと抑制するものがある。脆化促進元素としては、マンガン(Mn)、クロム(Cr)、ニッケル(Ni)が挙げられる。これらは単独では必ずしも大きな影響を持たないが、不純物元素の粒界偏析を助長する相乗効果を示す場合がある。一方、モリブデン(Mo)は高温焼戻し脆性を顕著に抑制する効果があることが実験的に確認されており、0.15〜0.5%程度の添加が有効とされる。タングステン(W)も同様の抑制効果を持つとされる。
- 脆化促進元素:リン(P)、アンチモン(Sb)、スズ(Sn)、ヒ素(As)、マンガン(Mn)、クロム(Cr)
- 脆化抑制元素:モリブデン(Mo)、タングステン(W)
- ニッケル(Ni)は単独では脆化に対し比較的中立だが、クロムとの共存下では影響が増す
脆性評価方法
焼戻し脆性の程度は主に衝撃試験によって評価される。シャルピー衝撃試験では、焼戻し後の試験片に規定のノッチを設けて破断させ、吸収エネルギーを脆化の指標として用いる。脆化の発生を定量的に比較する指標として、延性・脆性遷移温度(DBTT:Ductile-Brittle Transition Temperature)がよく用いられる。脆化した鋼ではDBTTが高温側にシフトすることが特徴であり、同一化学組成の鋼でも熱処理条件の違いによってDBTTが数十℃以上変化することがある。また、破面観察による粒界破壊割合の測定も脆化度の評価に活用される。
防止対策と熱処理設計
焼戻し脆性を防止するための熱処理設計では、脆化温度域の回避と適切な冷却速度の確保が基本方針となる。高温焼戻し脆性に対しては、焼戻し後に脆化温度域(450〜600℃)を素早く通過させる急冷処理が有効である。油冷や水冷による焼戻し後の急冷は、大型部品では内外温度差による熱応力を生じる恐れがあるため、部品形状や断面積を考慮した冷却速度の設定が必要である。素材面では、合金鋼の組成設計においてMo添加が広く採用されており、Ni-Cr-Mo鋼は高温焼戻し脆性に対する抵抗性が高い代表的な構造用鋼種として位置付けられる。また、溶製段階での脱ガス精錬やスラグ制御による不純物元素(P、Sb、Sn)の低減も根本的な対策として機能する。
適用される鋼種と実用上の注意点
焼戻し脆性は、構造用合金鋼を用いた機械部品や圧力容器、大型鍛造品において特に問題になりやすい。浸炭焼入れ品の焼戻し工程でも脆化温度域の管理が求められる。また、長時間高温環境にさらされる部品では運用中に高温焼戻し脆性が進行する場合があり、発電プラントや石油精製設備の高温部品では在役中の脆化進展が保全上の重要課題となっている。調質処理(焼入れ後に400℃以上で焼戻しを行いトルースタイトまたはソルバイト組織を得る処理)においては、脆化温度域と使用温度域が重なる場合には特段の注意が必要である。低温焼戻し脆性については、工具鋼や軸受鋼のように150〜200℃の低温焼戻しで硬度を維持する用途では問題が生じにくいが、250〜400℃での使用や再加熱が生じる部品では脆化リスクを常に念頭に置く必要がある。
ステップ冷却試験
高温焼戻し脆性感受性を事前に評価する方法として、ステップ冷却(step cooling)試験がある。これは鋼材を600℃から300℃まで段階的に保持・冷却し、意図的に粒界偏析を促進させた後にシャルピー衝撃試験を実施して脆化感受性を評価する加速試験法である。実際の部品製造前に素材の脆化感受性を把握できるため、素材選定や熱処理条件の最適化に活用されている。評価指標としてはステップ冷却前後のDBTTの差(ΔDBTTまたはΔvTrs)が用いられ、この値が小さい素材ほど高温焼戻し脆性への抵抗性が高いと判断される。機械材料の信頼性設計において、ステップ冷却試験の結果を材料規格の一要件として組み込む事例も存在する。
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