漢の内政|400年続いた漢王朝の政策

漢の内政

は一時、に滅ぼされるもの、その前後の前漢後漢合わせて400年以上続いた王朝であるが、その内政は、比較的安定した王朝であった。科挙制度の前進となる官吏登用法や通貨・文字の統一など統一国家の中国としての整備が整えられた。また、外交的にも北はモンゴル、西側はカスピ海、南はベトナム、東は朝鮮に影響力をもった。こうした状況で、民衆は鉄器、絹、農産物が作り、商人はシルクロードを渡り、西側との交易が盛んに行われた。

官吏登用法(選挙)

前漢時代には官吏の任用は地方の自治を重んじ、郷・里の有力者が地方長官と合議の上で推薦した。これを郷挙里選といった。後漢には儒学が盛んになり、孝廉・明経など多くの科が置かれ、地方長官から選ばれて中央へ集まった人材は形式的な試験を受けて採否が決定された。漢代の官吏登用法は他選本位である点が、後世の科挙と異なる。

兵制

の軍隊は原則として徴兵制で、民衆は23歳より55歳にいたるまで2年間の兵役に服した。兵役に当たったものは1年間は国都に上り、天子の儀仗や宮城の守護となった。他の1年間は辺境守備に当たった。

農業政策

農業政策漢の統一により農村秩序が回復されると、社会の生産力は日一日と発展した。武帝のとき、一年ごとにうねと溝のところを代える新農法(代田法)が創始されるようになり、耕作・草取り・種播きなどの農具の進歩、水利灌漑の発達もあって、農業生産力は大いに高まった。

手工業

手工業は、製鉄・製塩は官営事業として多数の刑徒・奴隷・労働者を使用して盛んになった。特に西欧や中央アジアでは絹織物・漆器が人気で、、発達が目ざましくシルクロードを通して輸出された。

商業都市

諸産業の発達につれて、商業は全国的に行われるようになり、長安・洛陽・成都・郡部などは商業都市が繁栄する。それに伴い商業で力をもった商人が力をもつようになった。

通貨

漢の初期には、民間で貨幣を鋳造して富を築いた者も出たが、武帝はこれを禁止し、五鉢銭を通用させた。五鉢銭1鉢は1両の24分の1。約0.69gに当たり、隋まで鋳造・使用された。

限田策

限田策は、の政府が豪族の台頭を抑え込むため、土地と奴隷の数を制限しようとしできた政策である。農業生産力の発展により、地方豪族や商人による大土地所有が進み、彼らは、大土地と多数の隷属民を使役し、地方豪族として大きな勢力をもつようになった。前漢末から台頭し、後漢時代には名門として尊敬され、さらに開墾などにより耕地を拡張した。

豪族の台頭

漢では、郷挙里選によって官吏を地方長官の推薦によって任用したため、地方豪族の血縁者が官吏となって地方政治にも影響力をもった。農民は、政府の莫大な軍事費支出したため、過重な負担と軍役とに疲弊し、また、大土地所有者の圧迫を受けて没落し、豪族のもとに走って隷属的農民(旧戸)になるものが現れた。

均輸法

均輸法は、前漢の武帝が財政の再建のために施行した物価調整法である。前115年発布された。均輸官を郡国におき、特産物を税として強制的に貢納させ、これを不足地に転売して、政府収入の増大と物資の調達・流通の円滑化、物価の調整をはかった。

平準法

平準法は前漢の武帝が財政再建のために物価の安定を狙って実施された法である。均輸法と関連して、前110年に実施された。物価低落時に余剰商品を政府が購入して、物価高騰時に売り出し、政府収入の増大と物価の維持をはかった。商業に対する国家的統制として大きな反発が起こった。

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