清少納言
清少納言は平安時代に活躍した随筆家である。『枕草子』歌詠みの家柄に生まれ、中宮定子のもとに出仕する。後宮の様子を女文字(仮名)で綴った『枕草子』は、今でも紫式部の『源氏物語』とともに、名高い古典文学として長年にわたって親しまれている。
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清少納言
清少納言の略年
974年 父元輔の周防守任官にともない周防に下向
981年頃 橘則光と結婚する
993年頃 中宮定子の女房として出仕する
1000年 中宮定子の死去にともない、宮中を辞したと考えられる。その後再婚
1001-1010年 この間に『枕草子』が完成する
生誕
清少納言は一説では966年(康保3)頃に生まれたといわれる。本名は不明であるが、宮仕えのとき、父の清原元輔にちなんで、その「清」をとって「清少納言」と呼ばれた。
清原元輔
父である清原元輔は中級貴族で、歌人としての才能が優れており、三十六歌仙のひとりに選ばれていた。清原元輔から、仮名や、当時男しか許されていなかった漢学を学んだと思われる。清少納言の性格は勝ち気で活発で、清原元輔の影響から教養にあふれていた。
『枕草子』
993年、一条天皇の中宮定子に仕えることになった。『枕草子』は宮廷生活をしながら、見聞きした人生や生活、自然のいろいろなことを、彼女の豊かな感性と鋭い観察眼によって記述されている随筆集である。(完成は宮中を辞した後だったとされる。)文体は、簡潔でリズム感のある美しい文章であり、平安時代の代表的な文学作品として高く評価されている。
紫式部
博学で才気溢れる清少納言は、公卿との和歌の贈答やかけ合いに臨機応変に立ち回り、評判の才女となった。『源氏物語』を書いた紫式部とは、互いに強く意識する仲であった。しかし、直接交流をもった記録は残っていない。
晩年
一条天皇はたびたび中宮定子のもとを訪れ、やがて中宮定子は敦康親王をもうけたが、中宮定子は25歳の若さで亡くなってしまう。詳細は定かではないが、そのときに宮廷を退いたと考えられている。その後、摂津守藤原棟世(むねよ)と再婚し、藤原棟世の任地を回りながら一女をもうけるが、藤原棟世の死後、京に戻り、不遇な晩年を送ったと伝えられている。