永遠回帰
永遠回帰とは、ニーチェの重要用語で、あらゆる事柄が同じ順序と脈略にしたがって永遠にくりかえされること。この生が永遠と繰り返す様は、ニヒリズムの極限の姿とされる。この世で体験した喜びや苦悩と共に永遠に回帰することすら肯定し、この運命を愛さなければならない。『この人を見よ』(1908)で「到達しうるかぎりの最高の肯定の形式」であると述べた。(参考:ニーチェのニヒリズム)
物理学
ニーチェが永遠回帰にいきついたのは、当時の物理学の状況がある。最新の物理学説であったエネルギー保存の法則や機械論的自然観から影響を得た、と類推できる。特に、当時流行したラプラスの魔と呼ばれる問題(この世界のすべての物質の力学的状態を解明することができたとしたら、未来がすべて予言しうる)は永遠回帰へつながった、といえる。
キリスト教的時間と円環的時間
キリスト教の世界観では、創造から始まり最後の審判で終わる、という直線的な時間であるが、これに対し、永遠回帰は円環的時間である。
古代ギリシアの思想はピュタゴラス派やヘラクレイトス、ストア派などの古代ギリシア的世界観のうちに円環的時間が存在していた。ニーチェは文献学研究を通してその着想を得た、と考えられる。
『悦ばしき知識』
デーモンがこう君に告げたとしたら、どうだろう、『お前が現に生き、また生きてきたこの人生を、いま一度、いな、さらに無数回にわたって、お前は生きねばならぬだろう。そこに新たな何ものもなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思想と嘆息、お前の人生の言いつくせぬ巨細のことども一切が、お前の身に回帰しなければならぬ。
お前は、このことを、いま一度、いな無数回にわたって、欲するか?
機械論的・運命論的
永遠回帰は機械論的・運命論的であり、自由意志は否定されうる。試みるすべてのことはあらかじめ決定されており、その決定に抗おうとする行為でさえ、すでにそのなかに組み込まれている。すべてが同じことの永遠なる繰り返しであり、キリスト教が説くような創造的未来はない。我々はこの永遠回帰の中で、ただただこの瞬間を肯定するしかない。
運命愛
気が狂うような、永遠と繰り返されるこの生を、ありのまま受け入れ、新しい世界を自らの力で創造しなければならない。この運命を受け入れる。この運命愛は、ニヒリズムを克服するための唯一の手段である。よって永遠回帰とは、自己を超越する、生に対する試練であるといえる。