村山富市

村山富市

村山富市(むらやま とみいち、1924年3月3日生まれ)は、大分県出身の日本の政治家で第81代内閣総理大臣(1994年から1996年)を務めた。明治大学を卒業後、労働組合運動に積極的に関わり、その後、大分市議会議員および大分県議会議員として活動した。1972年(昭和47年)に日本社会党(後の社会民主党)から衆議院議員に初当選した。

生い立ち

村山富市は、大分県大分市に生まれた。彼は地元の大分県立大分中学校(現在の大分県立大分上野丘高等学校)を卒業後、東京帝国大学(現在の東京大学)に進学し、法学部で学ぶ。大学卒業後、地元大分で教師となる。

初期の政治キャリア

村山富市は大分市議会議員、大分県議会議員として活躍した。1972年、日本社会党から出馬し初当選を果たす。国会では社会労働委員会に所属した。医療福祉問題の第一人者とする。

社会党の委員長

村山富市は日本社会党内の右派に属し、党内での地位を徐々に高めてき、国会対策委員会などを務めた。1993年、山花貞夫の後を継いで社会党の委員長に選ばれた。細川内閣を社会党幹部として支えた。その後、新生党の小沢一郎と衝突し、次の羽田内閣では連立与党から離脱した。

内閣総理大臣

1994年6月、村山富市は羽田内閣の後を受けた自民党、社会新党、さきがけ3党の連立内閣を作り、第81代内閣総理に就任した。社会党の首相は1947年の片山哲以来のことであった。選挙区割り・ルワンダへの自衛隊派遣、日米経済協議、消費税増税、安保理常任理事国入り問題などで苦しみ、96年1月に総辞職した。

村山談話

1995年、村山談話を出す。この談話は、日本の植民地支配と侵略に対する謝罪を表明したものであり、政府の公式な歴史的見解として認識されている。この談話は後の内閣にも引き継がれ、日本の歴史認識の基礎となった。戦後の50年のことであった。

自衛隊・君が代・日の丸に対する立場の変化

村山内閣の重要な政策転換として、自衛隊の存在を容認すること、君が代と日の丸を国として正式に認めることが挙げられる。これらの政策変更は、日本社会党の従来の立場から大きく逸脱するものであったが、村山富市はこれを推し進めた。

地下鉄サリン事件

オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった。官邸の危機対応の弱さが目立った。

阪神大震災

阪神大震災が起こる。神戸市を中心とする兵庫県南部地方でマグニチュード7.2の大地震が発生。6300人の死者を出し、都市災害のすさまじさを認識させた。当時、戦後最大級の地震であったため、救助がうまくいかず批判が集まった。特に自衛隊出動が遅れたことから、当時の兵庫県知事への批難を中心に大きくなる。

社会民主党への移行

1996年1月、突然辞任し、その後、日本社会党は社会民主党に改称された。村山はその初代党首に就任したが、同年9月には退任した。10月の総選挙は党首 土井たか子で戦ったが、社会民主党は敗れ、弱体化した。

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