李斯
李斯(?~前208)は、法家で秦の始皇帝に仕え、法家思想に基づく強硬策を進言して統一を完成させた学者である。諸子百家のひとりで韓非子とともに荀子に学んだ。統一後は丞相として権力をふるったが、秦国の2世皇帝胡亥の擁立し、のちに刑死した。
韓非子
李斯は、韓非子とともに儒家で著名な荀子に学んだ。李斯は秦の政(秦の始皇帝)に仕えた。秦の始皇帝は韓非子の書を読み、韓非子を秦に招くが、権力が脅かされることを懸念した李斯は、韓非子を自害に追い込んだ。
中央集権体制の強化
官制中央には丞相(行政)、太尉(軍事)、御史大夫(監察)を置いてそれぞれの権力の分立の体制をとり、中央集権的官僚体制を作った。地方には、郡に守(行政)・尉(軍事)・監(監察)を、県には令・長を置いた。
郡県制
郡県制は、統一前から自国領内において郡県制を実施していたが、統一後は全国を直轄地として支配するため、周の封建制度を廃し、全国を36郡(秦の領土拡大や郡の分裂により48郡までになった)に分け、郡の下に県を置き、中央から官吏を派遣して統治した。
反乱の防止
反乱を防ぐため、民衆の兵器を没収した。さらに全国の主な都邑の城壁を破壊し、12万戸といわれる富豪を首都の咸陽に集め、反乱を起こさないような政策を進めた。
経済・文化の統一策
国ごとに異なっていた貨幣や度量衡、車の幅を統一し、秦の規格を一本化した。集権化を進めると共に経済政策をおこなった。また、文字を篆書に統一するとともに、言論・思想の統一を図った。
焚書坑儒
焚書坑儒は、始皇帝が実施した思想・言論統制策である。秦が統一後、法家の李斯と儒家が敵対関係に陥る。李斯の建議により、前213年に農業・医薬・卜占い以外の書を焼かせ(焚書)、翌年には、儒者460余人を穴うめにして殺した(坑儒)とした。儒者を追い出したことによって、李斯の権力の集中が極端なものとなった。
李斯の死
秦国内で反乱が相次いだものの、放蕩生活を繰り返した皇帝に、李斯は阿房宮の造営などの中止を進言したが、かえって不信感をもたれた。紀元前208年、李斯は、拷問にかけれらたうえ、極刑にあった。