文化大革命|毛沢東に利用された悲しき知識人

文化大革命

文化大革命とは、毛沢東と彼を支持する学生たちが起こした共産主義革命である。毛沢東の継続革命論に感化された知識層の学生らは紅衛兵と称して暴力的な革命を試みた。毛沢東に扇動された紅衛兵は毛沢東の政敵である共産党の幹部、役人・教師、地主や親までも弾圧の対象となり、犠牲者20万人から50万人とされ、被害者は1億人に上ると言われている。なお、文化大革命の後、紅衛兵の学生らは、下放と称して辺境の農村部に強制移民させられた。(参考:大躍進政策

毛沢東
毛沢東

目次

毛沢東の危機

1958年、毛沢東は、大躍進政策を始めるが、まもなく失敗におわる。毛沢東はこれ批判した幹部の彭徳懐(ほう・とくかい)を失脚させた。

歴史劇『海瑞罷官』

北京市副市長の呉晗(ご・がん)が歴史劇『海瑞罷官』を発表するが、毛沢東は、歴史劇『海瑞罷官』は、中国の明の時代に、皇帝に批判的な意見を述べたために失脚した高官の海場を主人公にした物語であるが、毛沢東は、登場する海瑞が、彭徳懐と重なっているように思え、自らに対する批判であると受け止めた。

毛沢東包囲網の一掃

毛沢東は、大躍進政策が失敗したことを受け、政治的立場が危うくなっていたことから、上海の活動家に歴史劇『海瑞罷官』を批判させ、自分に対する批判的な勢力の一掃に乗り出した。

挑文元の評論

1965年11月、上海の新聞「文匯報」に、「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」という挑文元(よう・ぶんげん)の評論が掲載された。

呉晗の逮捕

呉晗は毛沢東を崇拝していたが、拷問の上、自殺。妻や家族も自殺した。これが10年続いた文化大革命の始まりであった。

毛沢東の継続革命論

毛沢東は、たとえ社会主義革命が成功したとしても、共産主義実現までにかかる長い期間には、プロレタリアート(労働者階級)とブルジョアジー(資本階級)の間に階級闘争が存在し続ける。この階級闘争は、共産党内にも反映され、共産党内に、社会主義をめざす勢力と、資本主義に戻ろうとする勢力が生まれる。共産主義の理想の社会が実現するまで、常に共産党内でも階級闘争を続けていかなければならない。これを継続革命理論という。マルクスレーニン主義に基づくソ連の革命を発展させた上で革命後も階級闘争を続けなければならないという思想である。

毛沢東
毛沢東

社会主義段階でも階級闘争は継続していて、資本主義は復活しうる

紅衛兵

1966年6月、エリート教育で有名な清華大学付属中学(中高一貫の六年制学校)の生徒たちが、「革命造反精神万歳」という壁新聞を張り出した。彼らは封建社会のもとで苦しんでいた農民を解放した中国革命の理想に憧れ、自分たちの教育を革命的なものではない、と考え、学校の教育方針を批判した。紅衛兵運動は北京大学にも広がり、大学当局を批判する壁新聞が張り出さた。これに各地の学校が応じて紅衛兵運動が始まった。

紅衛兵
紅衛兵

革命とはつまり造反だ。毛沢東思想の精髄はつまり造反だ(紅衛兵のスローガン)

毛沢東による紅衛兵の支持

毛沢東は、紅衛兵に目をつけ、明確に支持を打ち出した。造反有理を唱え、熱烈な支持を出した。1966年8月には、「紅衛兵」の腕章を巻いた若者たちが、全国から100万人集まり、天安門広場で毛沢東のもとに集まる。毛沢東自身も紅衛兵の腕章をつけ、自らが紅衛兵の最高司令官になることを示した。

毛沢東の演説
毛沢東の演説

毛沢東崇拝

冷戦時代の東側諸国では、ソ連におけるスターリンに対する個人崇拝のように個人崇拝が見られたが、中国共産党における毛沢東はその中でも特出した崇拝が行われた。毛沢東は、自身への崇拝を利用し、若者たちの革命精神と、党外の勢力を使って、党内政治を圧政使用とした。

竹のカーテン

ソ連や東ヨーロッパの国内の出来事が西側にわからなくなったことを「鉄のカーテン」になぞって、中国国内の様子がわからなくことを、竹のカーテンと呼んだ。

紅衛兵運動の暴走

紅衛兵運動は暴走し、反抗するものには道理がある」というお墨つきを受けた学生たちは走資派(資本主義に走る者)に大衆に引きずり出し、弾圧を加えた。資本家や地主、役人まで反革命としてつるし上げた。学生らの敵意は親たちにも向けられ、反革命的であるという理由で罪状を読み上げ暴行を加えた。

文化大革命の宗教・芸術破壊
文化大革命の宗教・芸術破壊

文化大革命の犠牲者

警察や軍隊は紅衛兵を黙認した。紅衛兵は暴行から殺害に至り、次々に殺されました。集団ヒステリー状態になり、膨大な数の虐殺が行われた。文化大革命は、膨大な犠牲者を出しました。正確な数はわかっていないが、10年間で300万人が投獄され、50万人が処刑されたとも言われている。

下放

文化大革命の成功により、毛沢東は権力地盤を固めるが、文化大革命を担った紅衛兵が障害となった。また知識層を信用していなかった毛沢東は、下放と呼ばれる知識青年の再教育制度を行った。下放により、毛沢東を熱烈に支持した2000万人を超える青年たちが辺境の地に赴き、慣れない手つきで農作業に従事した。絶望的な貧困に直面し、毛沢東の死後、1000万人が、都会へ逃げ帰ったと言われている。

文化大革命の評価

文化大革命は、竹のカーテンに覆われていた中で、高い評価を共産主義者の間でうける。ソ連式の社会主義は世界の若者たちを失望させ、その代わりとなる文化大革命の「永続革命」というスローガンは、若者たちにとって魅力を捉えた。パリの五月革命、日本の東大解体などの全共闘運動、アメリカのベトナム反戦運動など、世界各地で学生の反乱が起きた。これらの基本思想として毛沢東思想が大きな影響力を与えた。日本の東大闘争で、バリケード封鎖された東大の門に「造反有理」のスローガンが掲げられた。

失われた世代

1960年前後に学生生活を送った人々のことを、中国では「失われた世代と呼び、文化大革命では、すべての学校の授業が停まり、学生たちは、既成の体制や風習などを破壊し、教育の機会が与えられないまま、多くの若者が下放によって、辺境の農村で、文字の読み書きができない農民たちと仕事を行った。


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