持統天皇
鸕野讚良(うののささら・後の持統天皇)は大和国(奈良県)で天智天皇の第二皇女である。天武天皇が制定した飛鳥浄御原令を実施し、皇居と都市を合わせた条坊制を採用した藤原京を造営した。天武天皇が崩御すると、大津皇子は謀反で捕らえられて自殺させられ、皇后の持統天皇が即位した。万葉歌人としても有名で、「春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山」という歌が収められている。
目次
持統天皇の略年
645年 天智天皇の皇女として誕生する
657年 大海人皇子の后となる
671年 大海人皇子とともに、吉野へ出家する。
672年 壬申の乱が起こる。
673年 天武天皇が即位する。
689年 飛鳥浄御原令を施行する。
690年 即位
694年 藤原京に遷都する。
697年 文武天皇に譲位する
702年 崩御する。
壬申の乱
兄の天智天皇が病に倒れると、大海人皇子は、崩御後の後継争いによる暗殺避けるため、出家を申し出、鸕野讚良(持統天皇)とともに吉野へ行くが、天智天皇が崩御したのち、子である大友皇子を打倒するために、皇室を二分した壬申の乱が起こった。大海人皇子軍は、大友皇子に優位に戦況をすすめ、大友皇子の自害をもって、勝利を収めた。
天武天皇
天武天皇の即位とともに政治の中心として手腕をふるい、律令国家の基礎を気づいた。
草壁皇子
天武天皇は鸕野讚良(持統天皇)の子である草壁皇子を後継と決めたものの、草璧皇子は病弱で政治的実績はほとんどなかった。一方で、大津皇子は聡明で朝廷内の信望も篤く、水面下では後継を大津皇子がその後継を次ぐのではないかと言われていた。草壁皇子の皇位を熱望していた鸕野讚良(持統天皇)は、無実の罪を着せて大津皇子を自害に追い込んだと言われている。しかし草壁皇子は天武天皇が崩御した翌年に病死した。
軽皇子
草壁皇子の死後、草壁皇子の子である軽皇子に皇位を伝えるため鸕野讚良(持統天皇)みずから天武天皇の皇子たちを差し置いて、正式に即位した。持統天皇は8歳で軽皇子に譲位、自らの血筋から、文武天皇が生まれた。
藤原京
藤原京跡(奈良県橿原市)。持統天皇が遷都した藤原京は、本格的な条坊制を採用したもので、後の平城京よりも大きかったという。
太上天皇
697年に孫の文武天皇に皇位を譲ったが、持統天皇ははじめての太上天皇として政治にあたった。文武天皇は、やがて鎌足の子、藤原不比等(659~720)らを用い、701年に大宝律令を完成させた。
持統天皇と火葬
持統天皇は702年崩御する。古代の日本では、土葬行われていたが、仏教の伝来に伴い、火葬が行われるようになった。最初の火葬は700年の僧の道昭、つづいて702年の持統天皇であると言われており、天皇家では初めてのことであった。