慶応の改革|徳川慶喜が主導した幕政改革

慶応の改革

慶応の改革とは、徳川慶喜が15代将軍就任に伴い、幕府を立て直すために実行した改革である。慶応2~3(1866~67)年に行われた。1866年7月20日に家茂が大坂城で病死するが、これを受けて、12月5日、英才として評判が高かった一橋家の徳川慶喜が将軍に就任した。徳川慶喜が将軍になると、フランスからの協力を得て、軍事改革や兵庫開港を推進し、徳川家の主導権回復をはかろうとした。しかしながら、慶応の改革のほとんどが実施されるめに幕政制度は崩壊するに至る。

目次

横須賀製鉄所の建設

1865年9月、幕府はフランスから240万ドルの借款と技術援助を得て、横須賀製鉄所の建設を始める。後に拡張してドックを完成させ、横須賀造船所と改称した。また、それと平行して、横浜に小規模製鉄所を建設する4カ年計画を立てた。フランスは借款の見返りとして、日仏の商人に組合を結成させ、生糸の独占的な貿易を許可した。

兵庫港の開港

兵庫港の開港を求めたが、孝明天皇は京都に近い兵庫港の開港を拒み、議論が進展しなかった。そこで徳川慶喜は、将軍は老中をともない、上洛し、朝廷を説得する。その結果、1866年5月24日、朝廷は、やむなく兵庫開港の勅許を行った。

パリ万博

1867年の春、パリで万国博覧会が開催された。フランスのナポレオン三世は徳川幕府に万国博覧会への出品を勧めた。そこで幕府は、当時15際だった清水家当主、徳川昭武(慶喜の弟)を派遣し、各地の名産品を出品した。特に日本茶屋で3人の芸者が茶の接待をして評判となった。このほか奇術師・曲芸師、浮世絵、銀細工などの細工物、和紙・木材に至る広範囲の日本の特産品も出品した。また、幕府に対抗して薩摩藩も薩摩琉球国として参加し、陶磁器を博覧会に出品した。その後、輸出産業として薩摩藩の陶磁器はヨーロッパで流行した。

幕政改革

老中・若年寄・三奉行制度を廃止する。その一方で、陸軍・海軍、国内事務、貿易、会計、外国事務などを設置し、長官には老中が任命された。

財政改革・経済対策

財政難に苦しむ幕政を整えるため、財政整理や新税賦課を推し進めた。財政状況を整え、産業や軍事力の近代化を行おうとしていた。また、経済対策として、産物会所の設置による全国市場の支配も併せて勧められた。また日仏会社設立による貿易の独占により財政基盤を育てようとした。その他、蝦夷地の鉱山開発などを計画も建てた。

軍事力の近代化

フランスとの協力を得て、横須賀製鉄所を建設するなど産業や軍事力の近代化を試みた。兵器だけでなく、フランス軍事顧問団を招聘して、陸軍士官教育に力を入れた。