徳川家康|江戸幕府を開いた戦国時代の武将

徳川家康

徳川家康(1543―1616年)は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての武将であり、江戸幕府の初代将軍である。戦国時代の終結を象徴する人物であり、江戸時代の260年以上にわたる安定した統治の礎を築いた。家康は、松平広忠と於大の方の子として生まれたが、幼少期には織田信長や今川義元などの有力大名のもとで人質として過ごす。彼の生涯は、数々の戦いと同盟を通じて勢力を拡大し、最終的に天下を統一するに至った。江戸時代の安定と繁栄、そして現代日本にまで続く社会の枠組みの形成に大きく寄与した。

徳川家康の略歴

徳川家康(1542年–1616年)は、三河国岡崎城で松平広忠と於大の方の子として生まれ、幼少期は人質として織田氏や今川氏に預けられた。1560年の桶狭間の戦い後、今川義元の死を契機に独立し、織田信長と同盟を結んで勢力を拡大した。信長の死後、豊臣秀吉に従い、その死後に発生した関ヶ原の戦い(1600年)で勝利を収めて、1603年に征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。家康は幕府の基盤を固め、長子秀忠に将軍職を譲ると共に、自らは大御所として政治の実権を握り、死ぬまでその地位を保った。

1543 幼少期と青年期

徳川家康は、 1543年、徳川家康(幼名:竹千代)は三河国(現在の愛知県)で松平広忠と於大の方の子として生まれた。幼少期には父親の松平広忠が今川家に忠誠を誓ったことから今川義元のもとで人質として育てられることとなる。幼い頃から他家に預けられることで、不遇な幼少期を送った。少年期には、学問や武芸を修めた。

1556年 松平家の当主

1556年、父親の死をきっかけに家康は松平家の当主となるが、依然として今川家の影響下にあった。

1560年 織田信長との同盟

1560年、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れたことをきっかけに家康は独立を果たす。三河の統治者としての地位を確立し、織田信長との清州同盟を結んだことをきっかけに戦国大名としての地位を確立した。

1562年 三河国統一と遠江への進出

1562年、岡崎城を拠点に三河国を統一し、さらに西方の遠江国(現在の静岡県西部)へと領地を広げた。家康の勢力は徐々に拡大し、織田家と共により強固なものとなっていく。

1575年 長篠の戦い

1575年、長篠の戦い(三河)で織田信長徳川家康連合軍が武田勝頼を破る。

1582年 小牧・長久手の戦い

1582年、織田信長が本能寺の変で倒れた後、信長の後継者争いが起こる。豊臣秀吉が台頭し、日本統一を進める中で、家康は一時的に対立することとなった。1584年、小牧・長久手の戦いでは豊臣に対抗する勢力として注目を集めたが、秀吉との和解に至る。豊臣政権下で独立性を保ちながら勢力の維持をはかった。

1590年 江戸城入城

1590年、豊臣秀吉家康に関東への移封を命じる。家康はこれを受け入れ、江戸(現在の東京)を拠点として新たな支配基盤を築いた。豊臣秀吉の死後、家康は国内の有力大名を束ねていく。

1600年 関ヶ原の戦い

1598年、豊臣秀吉の死去をきっかけに五大老の筆頭である家康が頭角を現す。1600年、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍を打ち破り、覇権を確立した。

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1603年 江戸幕府の成立

1603年、後陽成天皇から征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開く。これにより、日本は長期にわたる江戸時代の幕を開け、安定した政治体制が確立される。1605年、徳川秀忠は2代将軍に就任し、家康は駿府で大御所政治を行った。

1614年 大坂冬の陣

1614年、方広寺鍾銘問題で、豊臣秀吉との対立が深まる。大坂夏の陣では豊臣秀頼・淀君を自害に追い込む。一国一城令を発行し、大名に居城以外の城を破壊させる。

1615年 武家諸法度

1615年(元和令)、居城無断修築・新築禁止 婚姻許可制など禁中並公家諸法度を出し、天皇・朝廷を政治から遠ざける。

1616年 晩年

1616年、徳川家康は73歳で死去する。久能山に葬られ、翌年、日光に改葬した。東照大権現として祭られることになる。彼の死後、徳川家は約260年間続く長期政権を維持し、日本の歴史において重要な役割を果たした。

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