安政の大地震|東海地震・南海地震・江戸地震

安政の大地震

安政の大地震とは、安政の年間に13回に及ぶ地震が続いた。特に東海地震・南海地震・江戸地震の三つが大きいものであった。江戸地震では震度6強であった。ほとんどすべての江戸藩邸が被害にあい、死者は江戸中心部分だけで4700人であり、周辺地域を合わせると、推定で1万人を超えたと言われている。

目次

安政の東海地震

1854年1月4日午前8時、駿河・遠江・伊豆・相模を中心とする広い範囲で、M8・4(推定)の巨大地震が発生。地震による火災と津波で死者推定1万人。

安政の南海地震

1854年11月5日、伊勢湾から九州南部にかけての広範囲で大地震が発生。M8.4と推定される。3000人を超える死者、不明者を出した。

安政の江戸地震

約1年後の2月2日後のころ江戸湾の荒川河口付近を震源とする、M6・9の直下型地震が発生。火災の被害も含めて江戸の大半が被災し、本所や深川など下町を中心に死者7000人以上を出す大きなものとなった。1万とを超える倒壊があった。江戸城でも石垣が崩れ、諸門が倒壊した。その後も余震があり、奉行所は御救小屋を建て被害者の救済に当たった。

藤田東湖(小石川の水戸藩邸)

小石川の水戸藩邸の学者であった藤田東湖が建物の下敷きになり圧死する。東湖は国難を乗り切るために幕府やその他の枠を超えて、有力な大名との連合が必要と唱え、薩摩藩の島津津斉、老中阿部正弘(あべまさひろ)、水戸藩主の水戸斉昭(みとなりあき)とともに幕府の改革派であった。ほぼおなじ時期に老中の安倍昌浩が病のため手を引き、幕府の改革派が相次いでいなくなった。

千葉周作

安政の大地震で、千葉道場の千葉秀作が62歳で地震で亡くなった。

御救小屋

飢饉・火災・水害などで被害がおよんだときに、被災民を救済するために建てた小屋で、炊き出しなどを行う。

鯰絵

大地震のあと、鯰絵が流行し、数百種類の鯰絵が出版された。当時は地震は地底の鯰絵が動いて起こり、鹿児島神宮の要石で押さえつけると静まるという民間信仰があった。また信仰に伴い、鹿島神宮の地震除けの札も流行した。