天安門事件|北京天安門広場での学生の民主化運動と

天安門事件

天安門事件とは、1989年6月3日深夜から4日早朝にかけて、中国の北京天安門広場で民主化を要求する学生に対し、中国共産党が武力で弾圧した事件である。民主化政策を進めていた胡耀邦の追悼のため学生らが天安門広場にあつまったが、次第に、大規模な民主化要求へと発展した。共産党はこれを動乱(革命運動)とし、人民解放軍を出動させて鎮圧した。民主化を求める学生や市民が武力で排除されたことで、国内外に大きな影響を与えた。大規模な民主化デモが失敗した以降、民衆の民主化要求は下火になった。死者は、数百人~1000人程度と概算されているが、一部1万人に上るという試算もある。

天安門事件

天安門事件

概要

1989年4月15日に胡耀邦元総書記が死去すると、彼を追悼する形で民主化運動が始まった。学生たちは追悼デモを民主化要求のデモに発展させ、広範な市民の支持を得て広場を占拠し、ハンストを行った。これに対し、政府は北京市に戒厳令を布告し、武力弾圧に乗り出した。1989年6月4日未明、人民解放軍は戦車を動員し、天安門広場に集まった学生や市民に発砲した。多くの死者が出る中で、学生運動の指導者たちも逮捕された。この弾圧により、民主化運動は鎮圧された。事件後、民主化を求めた学生や市民は「反革命暴乱分子」とされ、趙紫陽総書記は失脚し、江沢民が後任に選ばれた。中国国内外からは強い非難の声が上がり、アメリカをはじめとする西側諸国は人権侵害として非難、経済制裁や政府高官訪問禁止などの措置を講じた。

胡耀邦の民主化政策

毛沢東の死後、腐敗した共産党幹部や政府、役所の幹部が中国を掌握していた中で、党総書記の胡耀邦は汚職と距離をとり民主化政策を進めた。民主化を懸念する共産党の保守派により辞任に追い込まれることとなる。

胡耀邦を追悼

中国の民主化を進めた胡耀邦は、1987年1月、党の総書記を辞任し、その2年後の1989年4月に死去した。4月15日の正午に死去が公表されると、その夜のうちに北京大学で学生による追悼集会が開かれた。2日後の17日には、中国政法大学の学生500人が、大学から天安門広場までデモ行進を開始した。

民主化の要求

天安門のデモは、初めは胡耀邦を追悼し、胡耀邦が間違っていなかったことを再評価してほしいという要求であったが、次第に規模が大きくなり次第に民主化運動に発展する。学生らは言論の自由の保障、共産党・政府幹部とその子弟の収入の公開などを要求した。

大学自治連合組織

1987年4月22日共産党主催の胡耀邦追悼大会が開かれたが、胡耀邦の再評価はされず、学生の要求を無視する形で進められた。これに対し、各地の大学では無期限の授業ボイコットに入る。共産党の影響下にない、各大学の学生による横断的な大学自治連合組織が設立した。

人民日報

1987年4月26日、共産党の機関紙「人民日報」に、「動乱に反対しよう」という社説が掲載されたが、共産党で使われる「動乱」とは、共産党に反対する革命を起こすことを意味した。学生の要求を却下するだけでなく、過剰に宣伝し、反体制分子として認定された。

社会主義擁護

1987年4月27日、共産党体制の下、5万人の学生たちは社説の撤回を求めてデモ行進した。学生たちは穏健な形での民主化を求め、「共産党擁護」「社会主義擁護」の横断幕を掲げ、誤解をとき、あくまでも共産党体制の中での自由化や民主化を求めていることを示した。

趙紫陽総書記の思惑

趙紫陽総書記は、学生運動に理解を示し、経済の「改革・開放」を進めるため社会の民主化を進めようとスローガンを掲げ、学生たちとともに社説の撤回を求めて保守派と対立する。共産党の名目上のトップである趙紫陽と鄧小平という共産党の最高実力者の保守派が対立する構図になった。しかし、鄧小平が社説の掲載を決めた以上覆ることはなかった。

ゴルバチョフ書記長との会談

ソ連や東欧の自由化を進めているソ連のゴルバチョフ書記長は自由化を規制しようとする中国を訪問する。世界各地から報道陣が入り込み、この行く末を見守っていた。学生運動の学生たちもこの機会を利用し、民主化運動を展開する。中国政府はゴルバチョフ書記長の歓迎式典を天安門広場で開催しようとしたが、学生たちの座り込みで断念し歓迎式典は空港に移した。これはメンツを重んじる中国首脳にとっては屈辱的であった。

趙紫陽の牽制

1987年5月16日、迎賓館でゴルバチョフ書記長と趙紫陽総書記の会談が行われ、その模様は冒頭生放送された。趙紫陽総書記は、重要なことはすべて鄧小平が決め、権力を掌握し事実上の最高権力者であることを述べた。このことは学生たちはもちろん、中国国民や一般の共産党員にも知られていない事実であり、一切の責任は鄧小平にあることが公となった。怒りの矛先は、鄧小平に向かう。

天安門広場でのデモ

5月17日、天安門広場とその周辺は人々のデモ行進で埋めつくされ、約100万人を超えたといわれる。中国共産党の職員も多数参加して堂々と職場名を名乗って民主化を訴えた。この日、中国全土で1○○○万人が街頭に出て鄧小平の退陣を求めるプラカードも目立った。

天安門事件

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趙紫陽の失脚

19日未明、趙紫陽は天安門広場で演説を行ったが、ここから表舞台に出ることはなく失脚した。同日の夜、保守派の李鵬(り・ほう)首相が首都の治安回復をテレビで呼びかけた。李首相は冒頭「党中央、国務院を代表して」と話し始め、総書記の代わりに保守派の李鵬首相が演説していることで、国民は趙紫陽総書記が失脚したことを知った。

人民解放軍による武力弾圧

6月4日、解放軍は学生たちへの軍事鎮圧が行われ、次々にデモ参加者拿捕された。学生たちが天安門広場に集まっている間、公安当局は学生たちに関する膨大な資料を集め、ビデオの隠し撮り、顔写真と氏名の照合などが行われていた。天安門広場が一掃された後も活動家は次々に逮捕、処刑されることになった。死者は中国の発表では10人程度、一般には数百人~1000人程度と概算されているが、イギリスの外交文書では1万人と報告されている。

天安門事件

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戦車を止めた男

6月5日、人通りの絶えた大通りを進む戦車の列の前にワイシャツ姿のひとりの男性が立った。見守る人たちが息をのむ中、戦車は止まり、男とにらみあいになりました。やがて現場から連れ去られた。

王丹

王丹(おう・たん)は、学生デモが始まったとき、北京大学歴史学部1年生であった。天安門事件後、学生リーダーたちが国外に脱出する中で国内にとどまり逮捕された。一度は釈放されるが、事件で中退した学生を救う運動が反体制派の勢力を作る画策とされ、再び投獄。獄中で健康状態が悪化し、病気治療を名目にアメリカに渡った。

柴玲

柴玲(さい・れい)は学生運動のを主導した女性である。北京師範大学心理学部大学院の学生で結婚していた。天安門事件の後、夫とともに指名手配され、中国国内の仏教団体の手引きで香港へ脱出する。いったんはフランスパリに移ったが、そこで夫と離婚する。アメリカに渡り、プリンストン大学卒業後、ハーバード大学ビジネススクールを出た。

ウアルカイシ

ウアルカイシは、新疆ウイグル自治区出身のウイグル族で、北京師範大学の学生であった。事件後、中国の地下組織を通じて香港に脱出した。その後、台湾出身の女性と結婚して台湾の雑誌の顧問になっている。

情報戦

海外マスコミの取材に応じた人たちのインタビュー映像を中国国内に送り、公安当局はこの映像を中国国内で流し指名手配者として放送した。海外の放送を勝手に使われ、人権弾圧に利用したことで海外メディアの批判が共産党に集まった。

江沢民

胡耀邦、趙紫陽を切った鄧小平は、保守派の李鵬を起用することなく、「改革・開放」路線を進めていた上海(シャンハイ)の江沢民を連れて、共産党の総書記に置き、江沢民時代が始まる。

拝金主義

天安門事件以降、一般国民にとって、政治の話はタブーとなり、鄧小平が進める経済の「改革・開放」路線だけを考えるようになる。結果、社会に拝金主義が蔓延した。

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