天保の改革|水野忠邦が行った緊縮財政の失敗

天保の改革

1837年、二代将軍徳川家斉は引退して西丸に移るが、これを機会に老中の水野忠邦らは天保の改革と呼ばれる改革政策を断行した。奢侈を禁ずるなどの緊縮財政を主に実行しようとするが、当初は、大奥や若年寄の激しい反対にあい阻止される。しかし、1848年、徳川家斉が死去すると、一二代将軍徳川家慶のもとで老中の水野忠邦は幕府権力の強化を目指して、さらなる改革進める。しかし、経済は混乱を増し、民衆の生活は圧迫、諸大名や親藩からも不満が出たため中止となり、改革は失敗した。水野忠邦は失脚する。

目次

倹約令

倹約令は、天保の改革で行われた緊縮財政政策で、高価な菓子や料理・華美な服装・贅沢品を禁止した。

風俗統制令

綱紀粛正の目的に風俗統制令が出された。日常の衣食住に影響を及ぼし、特に歌舞伎座などの芝居小屋は町外れに移転させられ、寄席が取り潰しなど娯楽の規制は多くの人々に不満を与えた。

出版統制令

出版物の規制が行われ、錦絵の禁止や、戯作者で『春色梅児誉美』を書いた為永春水や『偐紫田舎源氏』の柳亭種彦が、風俗に悪影響を及ぼすとされ処罰されることになった。

町人統制の強化

天保12(1841)年、市中取締掛を設ける。

株仲間解散令

1841年、江戸の物価高騰を押さえるため、株仲間の解散を行った。菱垣廻船積問屋・十組問屋などが対象となった。株仲間だけでなく、新興の商人も直接統制下に置かれた。しかしながら、かえって流通の混乱が生まれ、物価は高騰し政策は失敗、1851年には株仲間再興令が出された。

人返しの法

1843年、江戸に流入した下層農村を強制的に帰農させ、農村の再建をはかる、人返しの方が出された。出稼ぎを禁じ、領主の許可制とした。

三方領地替え

1840年、幕府は川越藩の松平家を庄内藩に、庄内藩の酒井家を長岡藩に、長岡藩の牧野家を川越藩へ転封させることを計画したが、酒井家や庄内・水戸藩の反対で1841年を撤回した。

上知令

1843年、幕府の政治・経済的な基盤づくりのため、江戸・や大坂周辺の大名・旗本領を直轄領に組み入れる上知令を出そうとしたが、替地を命じられた老中土井利位ら大名・旗本の反対により頓挫した。

水戸藩九代藩主徳川斉昭

天保の改革が実行している間、水戸藩では嗣子のない八代藩主徳川斉脩の後継者をめぐって対立が起こる。
将軍徳川家斉の子で清水家の養子となっていた徳川 斉彊(なりかつ)を迎えることで幕府との絆を強めたい藩中枢と藤田東湖、会沢正志斎らの徳川斉脩の弟、徳川斉昭の擁立に向けて画策する。後継者争いの結果、、藩政改革に積極的な徳川斉昭が家督を継ぎ、水戸藩九代藩主となる。改革派の勝利で、海防・軍事、特産品の育成など多岐にわたり、その内容は雄藩にも匹敵した。


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