大村益次郎(村田蔵六)|長州藩,日本陸軍の父,戊辰戦争

大村益次郎

大村益次郎(村田蔵六)は、長州藩の町医者に生まれた。長州藩士、兵学者。時代に先駆けて薩摩、長州、上佐が共闘することを考え、兵隊の士気を鼓舞するため『薩長土、民合議書』36万部作って配付した。すでに明治の日本陸軍を具体的に考え、さらに西郷隆盛が反乱軍として、明治政府との対立もそうそうに考えていた。大村益次郎が作った「長州軍」がのちの日本陸軍となったため、日本陸軍の父と呼ばれている。 東京六本木には広大な長州藩邸があり、ここ日本陸軍が置かれた。

大村益次郎

大村益次郎

目次

年表

1825年 生誕
1842年 梅田幽斎に医学や蘭学を学ぶ
1846年 緒方洪庵の適塾に入塾
1850年 長州藩に帰藩
1853年 宇和島藩の伊達宗城に招かれ蘭学教授および軍制改革参画
1856年 江戸で鳩居堂を開塾
1857年 幕府の講武所の教授に任命
1860年 荻藩の要請で長州藩雇士に
1868年 上野で彰義隊を破る
1869年 死去

緒方洪庵の適塾

1846年、緒方洪庵の適塾に入って蘭学を学び、塾頭となった。

軍制改革

宇和島藩主の伊達宗城に招かれ、蘭学の教授を行い、軍制改革に参画する。その後、幕府に仕え、講武所教授となった。

長州藩雇士

木戸孝允は、大村益次郎の活躍を見聞し、33歳の時、長州藩雇士として長州に戻った。藩校明倫館の兵学寮総監として士官の養成にあたった。

長州軍の近代化

禁門の変により長州軍は敗退を余儀なくした。その後、その反省も踏まえ、大村益次郎が軍制改革の総取締を任せられることになる。上海で西洋の近代的な武器を購入し、志願兵の訓練を実施するなど、長州軍の近代化を成し遂げた。

第二次長州征伐

第二次長州征伐では大村益次郎による長州藩の近代化が功を奏し、数で圧倒する幕府軍に勝利をした。この勝利をきっかけに大村益次郎の存在感は高まることとなる。浴衣で草履手にはうちわを持って、姿形にこだわらない格好で指揮をとったと言われている。

戊辰戦争

戊辰戦争では、戦略面を担当し、彰義隊が立てこもる上野の寛永寺の攻略では、アームストロング砲を活かした完璧な布陣で作戦を成功させた。あえて敗走路を作ることで長期戦を避け、わずか一日で陥落する。

明治新政府

明治新政府では陸海軍のすべてを掌握する兵部大輔(兵部省)として金星近代化を進めた。しかし、藩兵解散や帯刀禁止、帯刀を嫌う旧派浪士に襲われて負傷し、そのケガが悪化して死去する。