咸臨丸|幕末,勝海舟,福沢諭吉,オランダ

咸臨丸

咸臨丸(かんりんまる)は、幕末期に江戸幕府が保有していた初期の洋式軍艦である。木造で3本の帆柱を持つバーク型の帆船でありながら、補助的な動力として蒸気機関も搭載したスクリュープロペラ式の機帆船として設計された。日本の船として初めて太平洋を横断し、アメリカ合衆国西海岸のサンフランシスコへ到達したことで広く知られている。日米関係史、日本の近代海軍史、および洋学史において非常に重要な役割を果たした歴史的な艦船である。

咸臨丸

咸臨丸

建造の背景と日本への導入

1853年のマシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊(黒船)の来航によって、深刻な国防の危機に直面した幕府は、急遽西洋式の近代的な海軍を創設する必要に迫られた。その一環として、江戸時代を通じてヨーロッパの中で唯一国交を維持していたオランダに対し、近代的な軍艦の建造と軍事顧問団の派遣を要請した。この注文を受けて、1855年にオランダ南部のキンデルダイク造船所で起工され、1857年に完成して長崎へと回航された。当初オランダ側からは「ヤパン号(Japan)」と名付けられていたが、日本への引き渡し後に「咸臨丸」という艦名が正式に与えられた。この名称は古代中国の『易経』にある「君臣が互いに親しみ合う」という意味の「咸臨」という言葉に由来している。長崎海軍伝習所に配備された本艦は、最新鋭の練習艦として運用され、全国の諸藩から集められた優秀な藩士や幕臣たちが、オランダ海軍の士官から航海術や砲術などの近代海軍技術を学んだ。

咸臨丸と観光船

安政4年(1857)、江戸幕府が、2隻の船、咸臨丸と観光船をオランダから購入する。オランダ名では、ヤッパン(日本)号、「咸臨丸」と命名された。「君臣はたがいに親しみを持つ」という意味である。咸臨丸は長さ50メートル、幅7.3メートル、300トン、100馬力である。万延元年(1860年)、新見正興一行がアメリカのポーハタン号で渡米したが、咸臨丸も随行し、軍艦奉行木村喜毅、艦長勝海舟と98名の練習生を載せて太平洋を横断した。幕府の船として初めてのことである。咸臨丸は新品であったが、長崎伝習所の練習船は中古船である。西洋の素晴らしさ(光)を観る、という意味で観光船と名付けられた。

太平洋横断の偉業と困難

1860年、日米修好通商条約の批准書を交換するため、幕府は正使の新見正成らを代表とするアメリカへの遣米使節団を派遣することを決定した。この際、使節団の本隊が乗船するアメリカの軍艦ポーハタン号の護衛を名目として、咸臨丸の太平洋横断が計画された。その裏には、自国の力だけで太平洋を横断し、日本の近代化の成果と海軍力を内外に誇示するという強い意図があった。1860年2月10日(安政7年1月19日)に浦賀を出港したが、冬の北太平洋は連日荒れ狂っており、出航直後から激しい暴風雨に見舞われた。日本人の乗組員の多くが深刻な船酔いと疲労で行動不能となる中、同乗していたアメリカ海軍のジョン・ブルック大尉やアメリカ人水夫たちの技術的支援を受けながら、37日間の過酷な航海を乗り越え、同年3月17日にサンフランシスコへの入港を果たした。

勝海舟

艦長は勝海舟であり、練習生とともに日夜訓練を積んが、アメリカへの航海中は船酔いで倒れた。勝海舟は船で寝ていたが、アメリカについた途端、威勢がよくなったため、これをみた福沢諭吉は勝海舟に不信感をもち、生涯その溝が埋まることはなかった。

ジョン万次郎

万延元年(1860)、アメリカ船ポーハタン号は「日米修好通商条約」の批准のため、日本人を載せてアメリカに渡るが、咸臨丸はその随伴艦として、サンフランシスコに向かつた。咸臨丸にはアメリカ船のフェニモア・クーパー号の船員も乗船し、咸臨丸の中でアメリカ人と日本人が共同生活をすることになった。日本人の航海術を見せるつもりではあったが、漁師であった通訳のジョン万次郎を除いて船酔いで倒れた。

福沢論吉

啓蒙思想家は、福沢諭吉も咸臨丸に載っていた。嵐を乗り切るために全力を尽くしたアメリカ船員を見て、太平洋を渡るためには、身分や地位を気にしていてはならない、ということを学んだと書いている。

戊辰戦争と数奇な運命

太平洋横断という偉業を成し遂げた咸臨丸であったが、木造船体に搭載された蒸気機関の老朽化は想定以上に早く、帰国後は第一線の軍艦としての役割を退いた。主に輸送船や沿岸の警備艦として運用されたが、1868年に戊辰戦争が勃発するとその運命は大きく変わることになる。旧幕府軍の海軍副総裁であった榎本武揚が率いる艦隊に編入され、新天地を求めて蝦夷地(現在の北海道)へと出航した。しかし、銚子沖で暴風雨に遭遇して船体に致命的な損傷を受けたため、僚艦とはぐれて修理のために清水港(現在の静岡県静岡市)へ寄港した。

清水港での悲劇と清水次郎長

清水港で修理を試みていた咸臨丸であったが、新政府軍の艦隊に発見されて奇襲攻撃を受けた。十分な武装や反撃能力を持たなかった乗組員たちは次々と討ち死にし、船体は拿捕された。この時、湾内に放置された旧幕府軍の戦死者の遺体を、地元で大きな勢力を持っていた侠客の清水次郎長が手厚く埋葬したというエピソードは現在でも語り継がれている。

主要諸元と最期

拿捕された咸臨丸は、その後明治政府の管轄下に入り、開拓使の輸送船として再利用されることになった。1871年(明治4年)、北海道の小樽へ向かう途中で激しい嵐に遭遇し、木古内町のサラキ岬沖で座礁して沈没した。船体の主要なスペックは以下の通りである。

項目 仕様詳細
艦種 木造コルベット(3檣バーク型機帆船)
排水量 約300トン
全長 約49メートル(163フィート)
全幅 約8.7メートル(29フィート)
推進機関 補助用レシプロ蒸気機関(約100馬力)1基、スクリュー1軸
兵装 大砲12門(砲門のみで実弾は搭載していなかった時期もある)

長らく沈没した正確な位置や船体は不明のままであったが、現在ではサラキ岬の沿岸に記念碑やモニュメントが建立されており、日本の海を切り拓いた咸臨丸の数奇な歴史と功績を後世に伝えている。

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