咸臨丸
安政4年(1857)、江戸幕府が、2隻の船、咸臨丸と観光船をオランダから購入する。オランダ名では、ヤッパン(日本)号、「咸臨丸」と命名された。「君臣はたがいに親しみを持つ」という意味である。咸臨丸は長さ50メートル、幅7.3メートル、300トン、100馬力である。万延元年(1860年)、新見正興一行がアメリカのポーハタン号で渡米したが、咸臨丸も随行し、軍艦奉行木村喜毅、艦長勝海舟と98名の練習生を載せて太平洋を横断した。幕府の船として初めてのことである。
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勝海舟
艦長は勝海舟であり、練習生とともに日夜訓練を積んが、アメリカへの航海中は船酔いで倒れた。勝海舟は船で寝ていたが、アメリカについた途端、威勢がよくなったため、これをみた福沢諭吉は勝海舟に不信感をもち、生涯その溝が埋まることはなかった。
ジョン万次郎
万延元年(1860)、アメリカ船ポーハタン号は「日米修好通商条約」の批准のため、日本人を載せてアメリカに渡るが、咸臨丸はその随伴艦として、サンフランシスコに向かつた。咸臨丸にはアメリカ船のフェニモア・クーパー号の船員も乗船し、咸臨丸の中でアメリカ人と日本人が共同生活をすることになった。日本人の航海術を見せるつもりではあったが、漁師であった通訳のジョン万次郎を除いて船酔いで倒れた。
福沢論吉
啓蒙思想家は、福沢諭吉も咸臨丸に載っていた。嵐を乗り切るために全力を尽くしたアメリカ船員を見て、太平洋を渡るためには、身分や地位を気にしていてはならない、ということを学んだと書いている。
観光船
同時期に幕府はオランダから練習船として船を所有していた。長崎伝習所の練習船である。咸臨丸は新品であったが、こちらは中古船である。西洋の素晴らしさ(光)を観る、という意味で観光船と名付けられた。