卑弥呼|邪馬台国の女王,魏との外交戦略

卑弥呼

卑弥呼は3世紀初め頃、約30の小国を従えた邪馬台国連合国の女王である。15歳で女王になり、30代の働き盛りで後漢と通じ、老年の239年に魏との国交を開いて四度にわたって使者を送り、10年後に79歳前後で死亡した。しばしば魏に朝貢し、大陸外交を展開した。古代中国の歴史家、陳寿の歴史書『三国志』「魏書東夷伝倭人条」(「魏志倭人伝」)に名前が載っている。

目次

『魏志』の倭人伝

陳寿の歴史書『三国志』「魏書東夷伝倭人条」に3世紀の日本に関する記述があり、男子を王として70~80年も戦いが続き、戦乱を避けるために、倭の国々は女性を王にすることを決め、その名を卑弥呼という、と書かれている。

名称論争

卑弥呼は名前ではなく、ヒメコ(日女子)、ヒノミコ(日ノ御子)、ヒメミコ(日女御子)などと言った称号の名前であるという説もある。

巫女

一説によると、卑弥呼は女王ではなく宗教的な立場である巫女に近い存在であった。『魏志』の「倭人伝」には、「鬼道に仕え、よく衆を惑わす」、「王となってその姿を見る者無く、1000人を侍らせた」と書かれており、宮殿にこもり、宗教的な振る舞いを行っていた。卑弥呼の言葉は補佐役を務めた弟によって小国の権力者に伝えられたと考えられている。

239年「親魏倭王」

239年、卑弥呼は国交を開く目的で、使者に、男の生口(奴婢)4人と女の生口6人を布をもたせて遣わし、魏の皇帝に献上した。これにたいし、卑弥呼に「親魏倭王」の称号を与え、紫綬や100枚の銅鏡、真珠などの王位の象徴を授けている。

魏と邪馬台国の交流

240年には魏の使者が邪馬台国へ使わしたり、243年には、邪馬台国が使者を送るなど、親善と友好が深められた。

箸墓古墳

箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)は倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓とされる前方後円墳であるが、倭迹迹日百襲姫を卑弥呼と考える説もある。

親魏

卑弥呼より9年前に大月氏(だいげっし)の王調波という人物が魏から親魏という称号とその地位を表わす金印紫授をもらっている。親魏の称号は非常に高位の称号であり、魏が大月氏と並んで、邪馬台国・卑弥呼を高く評価していた。

三国鼎立

当時の魏は呉・蜀と拮抗している中で三国鼎立の時代にあった。魏は対立勢力である呉・蜀を牽制するために同盟国として邪馬台国との関係を維持する必要があったと考えられ、邪馬台国の卑弥呼は国力からみて過剰な待遇を受けた。

卑弥呼の死後

卑弥呼の死後、男子の王が立てられるが、内紛が起ってしまう。そこで卑弥呼の宗女(親族)で13歳の壱与(いよ)を女王にし、争いごとを避けた。壱与は邪馬台国の外交を引き継ぎ、魏の皇帝や魏の滅びたあとは西晋(せいしん)時代にも使者を送って交流をもったが、中国の史書から消える。


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