副島種臣|佐賀藩,西郷隆盛,政体書,民撰議院設立建白書

副島種臣

文政11年(1828)~明治38年(1905)。幕末期の佐賀藩士。明治時代の政治家。参議・枢密院副議長・内務大臣などを歴任する。

目次

幕末期の副島種臣

文政11年(1828)9月9日に枝吉忠左衛門の次男として佐賀城下にて生まれる。兄である枝吉神陽は国学者であり、楠公義祭同盟を主宰し、副島種臣も大隈重信・大木喬任・江藤新平らと共にこれに加わっている。
嘉永5年(1852)に京都へ遊学し、枝吉神陽の命令で大原重徳に朝廷からの将軍宣下の廃止を入説した。青蓮院宮朝彦親王から佐賀藩兵の上京を促されたため佐賀藩主の鍋島直正に進言したが失敗した。
安政6年(1859)、佐賀藩士副島利忠の養子となった。元治元年(1864)、佐賀藩が長崎に設立した致遠館でフルベッキから英語やアメリカ憲法などを学んだ。
慶応3年(1867)、大隈重信と共に脱藩し、将軍徳川慶喜の側近である原市之進を通して大政奉還策を入説しようと図ったが捕えられる。

明治時代の副島種臣

明治元年(1868)、戊辰戦争の勃発で混乱していた長崎において諸外国と交渉し、鎮静化に努めた。新政府の参与となり、福岡孝弟と「政体書」を起草して政治制度の枠組みをつくった。翌年に参議となる。
明治4年(1871)、外遊することになった岩倉具視の後任として外務卿に就任した。ロシアとの樺太問題、琉球藩の帰属問題、マリア・ルス号事件などの解決に向けて精力的に働いた。明治6年(1873)、特命全権大使として清国に渡り、日朝修好条規の批准と台湾原住人による琉球民殺害事件の処理を行った。このとき、副島種臣は清国から台湾は「化外の地」であるという言質を獲得した。再び参議に任命されたが、「明治六年政変」によって職を辞した。
明治7年(1874)、副島種臣の邸宅で愛国公党が結成され、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らと共に「民撰議院設立建白書」を政府に提出して国会開設を訴えた。
その後、宮内庁御用掛一等侍講・宮中顧問官・枢密顧問官・枢密院副議長・内務大臣などを歴任し、明治38年(1905)1月31日に病没する。

参考文献

『国史大辞典』「副島種臣」(執筆:杉谷昭)