八月十八日の政変|薩摩藩・会津藩と長州藩との衝突

八月十八日の政変

八月十八日の政変は、1863年8月18日、公武合体論を推し進める薩摩・会津の両藩が、尊皇攘夷派の公家三条実美たちを京都から追放した事件。公家の三条実美ら長州藩を中心に攘夷運動を支援していた。京都守護職会津藩は蛤門にてそれを弾圧し、長州藩と7人の公家は京都から追放された。

目次

薩摩藩の失脚

1863年5月8日、尊王攘夷派の公卿姉小路公知(あねがこうじきんとも)が何者かによって斬りつけられる事件が起った。遺留品から薩摩藩の田中新兵衛が疑惑をうける。これをきっかけに薩摩藩は御所乾御門(いぬいごもん)の警固を解かれ、御所への出入りも禁止され、薩摩藩は失脚した。

久留米藩・長州藩の攘夷親征計画「五事建策」

6月16日、久留米藩の真木和泉が上洛して長州藩の桂小五郎(木戸孝允)らと会合をもつ。攘夷親征計画「五事建策」を提起を行った。また、8月13日には攘夷祈願を目的とした孝明天皇の神武陵・春日大社への行幸も決定した。7月11日には、長州藩主の毛利慶親が「攘夷親征、立太子・違勅の幕吏、諸侯の討伐の三カ条」を朝廷に建白するよう命ず

薩摩・会津の提携成立

久留米藩・長州藩を中心とした尊攘派の高まりに懸念を抱いたのは、公武合体派を推し進める薩摩・会津の両藩であった。会津藩では、帰郷途中の藩士を京都に呼び戻し兵力の増強をはかる。薩摩藩の高崎左太郎らは、会津藩士の秋月悌次郎らと密会し、このまま天皇が大和口行幸をすると取り返しのつかない事態になることを懸念。会津藩の決起を促した。秋月悌次郎らはただちに藩主の松平容保に薩摩藩の意向を伝えて同意を得、ここに両藩の提携が成立した。

天皇の詔勅

薩摩藩・会津藩の提携が締結すると、秋月悌次郎らは、国事御用係の中川宮朝彦親王に天皇の大和行幸延期の画策を依頼した。その結果、大和行幸の延期、国事参政・国事寄人の廃止、三条実美らと尊攘派公卿の参内・面会の中止、長州藩の堺町御門警回の罷免などが記された天皇の詔勅を得た。

八月十八日の政変

8月18日未明、中川宮の参内とともに、会津・淀藩が御所に入る。薩摩藩は前関・白近衛忠熙父子の参内に呼応し、近衛邸の裏門から御所に入り、両藩は長州藩が警固する御所南正面の堺町御門前に集結した。
午前4時ごろ、会津・薩摩・淀藩によって御所の9カ所の入り口が閉鎖する。これに対し長州藩は最後まで抵抗するが、孝明天皇より警固罷免の詔が発せられたため、やむなく退去した。(八月十八日の政変)。
三条実美ら尊攘派公卿は洛東の妙法院に移り、ここで協議の末、長州へ逃れることを決定した。

七卿落ち

8月19日朝、雨の降る中を三条実美、澤宣嘉らの七卿と長州藩兵が京都を離れ九州に落ちた。これを七卿落ちという。

禁門の変

八月十八日の政変によって追放した長州藩は久坂玄瑞、来島又兵衛などを筆頭に大軍を率いて京都に進出したが、幕府は、会津藩・薩摩藩によってこれに対応した。両藩は長州藩を退け、幕府の勝利となったものの、京都は大規模な火災を受けた。