会津戦争|戊辰戦争,不義をもって生きず

会津戦争 

明治新政府軍、東北地方の統治にたいし、会津藩は抵抗を続けた。犠牲者は民間人も含めて2500人に上ったと言われている。少年達が自害した白虎隊の悲劇も会津戦争の最中に起った出来事であった。やがて会津藩は若松城に立てこもることになるが、戦況は新政府軍に圧倒され、悲惨さを極めた。1年半続いた戊辰戦争において大きな転換期となる戦争であった。

松平容保

松平容保

目次

会津戦争の流れ

1868年
6月24日 会津棚倉の戦い
7月16日 浅川の戦い
7月27-28日 本宮の戦い
7月29日 二本松の戦い
8月10-25日 津川口の戦い
8月21日 会津国境の母成峠(ぼなとうげ)が新政府軍に突破される
8月22日 十六橋攻防戦
8月23日 白虎隊自刃
8月24日-9月22日 鶴ヶ城の戦い
8月28日-9月5日 只見川河畔の戦い
8月29日 新政府軍、田島占領
9月1日 大内峠の戦い
9月2-4日 阿賀野川北側山地の戦い
9月6-9日 日光支軍若松南の戦い
9月12日 喰丸峠の戦い
9月17-18日 若松南郊会津城外追撃戦
9月22日 会津藩降伏

松平容保

第9代会津藩主の松平容保は徳川幕府に特別な忠誠心をもって、幕府の立て直しにつとめたが、徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いで破れ大坂に撤退する。松平容保は会津藩に帰るものの、新政府軍は会津まで追い詰めた。圧倒的な武力の前に会津藩の敗戦は濃厚であったが、松平容保は忠義を貫き通すことを決断した。この決断は、女子どもの死や少年兵が自ら命を絶った白虎隊などの悲惨な事件を招いた

義をもって倒るるとも不義をもって生きず。

会津藩の家訓

「政は利害を理由に道理をまげてはならない、戦いの備えを怠ってはならない、徳川将軍家には一心に忠勤を心がけよ、もし二心を抱けば、我が子孫にあらず」。会津藩には、このような道徳規範が会津藩の藩主、家老、家臣にまで浸透されており、会津藩の徹底抗戦につながった。会津戦争の思想的背景にあったと考えられる。

松平容保の京都守護職

1862年7月、幕府から松平容保に京都守護職に就任するよう命令が起きた。当時京都では長州藩を始めとした倒幕勢力により治安が悪化していた。朝廷の権威と天誅(暗殺)によって、倒幕にむけて武力行使がなされていた。それに懸念した幕府は、会津藩をその守護につけ、治安の安定化をはかる。1862年12月、松平容保は京都守護職として上京した。幕府にとって、会津藩や松平容保に対する信頼は絶対的なものがあったが、これをきっかけに1000人の人材を守護につけることは、会津藩の財政状況は緊迫することになる。

新選組の活躍

松平容保は近藤勇率いる新選組を京都の護衛に配置し、京を守った。倒幕勢力を取り締まり、池田屋事件では京都の焼き討ちを未然に防いだ。

禁門の変

禁門の変では、松平容保率いる会津藩は、薩摩藩とともに長州藩を退けた。

大坂城を脱出

1866年12月、孝明天皇が崩御する。徳川幕府に理解を示す孝明天皇が死んだことに加え、薩摩藩が長州藩と組み、徳川家に領地の返還を迫った。徳川慶喜は薩長との対決を決定し、会津藩・松平容保もそれにつづいたが、1868年1月3日、鳥羽伏見の戦いで、徳川慶喜が大坂城を脱出し、江戸に帰ることになる。1866年1月、松平容保は会津藩に戻った。

江戸城無血

1866年4月11日、西郷隆盛率いる新政府軍は江戸の焼き討ちを宣言するが、徳川慶喜が恭順の意を表明し、大規模な軍事衝突を起こすことなく、江戸城の明け渡しが行われた。自ら身を引くことで国力の消耗を避け、欧米諸国の侵略に備えるという政治的判断があった。これに相応するように松平容保も会津藩・藩主を息子に譲り、謹慎し、徳川慶喜の助命を朝廷に懇願した。

会津藩への不条理

新政府軍は、松平容保を朝廷に逆らったのみならず、徳川慶喜の反逆を助け、徳川家をも貶めたとして弾圧を通告した。会津藩や松平容保はこれを理不尽として、会津藩の名誉のために報復を拒否する。北上する新政府軍に対し、会津藩は6000人で戦時体制に持ち込んだ。米沢藩や仙台藩など32の藩が会津藩の援護に回り、奥羽越列藩同盟が成立する。

奥羽越列藩同盟成立

1868年5月3日、奥羽藩が反政府同盟を決議する。その後、越後六藩なども加わり奥羽越列藩同盟が成立した。当初、東北諸藩は戦闘を回避したいと考えていた。そこで、閏4月に東北諸藩による会議を開き、その席で朝敵、会津・庄内の両藩救済嘆願を決意し、嘆願書を仙台の奥羽鎮撫総督府に提出したが、総督府はこの受け取りを拒否し、会津攻略を進めた。この結果を受け、和平同盟として結成された奥羽越列藩同盟は、薩長政権を否定する軍事同盟へと変化した。

会津鶴ヶ城、陥落

戦闘が始まると、状況を見ていた東北諸藩は次々と新政府軍に寝返る。長岡藩との激しい攻防も新政府軍側が勝利すると、残すは会津藩のみとなった。武器や兵力に勝る新政府軍は会津鶴ヶ城(若松城)を包囲しする。8月21日、会津国境の母成峠(ぼなとうげ)が新政府軍に突破される。会津藩は次第に包囲網を狭められ、翌日には少年兵で組織された白虎隊が出撃したものの敗北、藩士の家族の女性や子どもは足手まといになることを拒み、城下で自害した。8月23日の戦いは最も激戦となり、多数の死者を出した。

籠城

完全に包囲された会津藩は籠城を決意した。最新の装備で固められた新政府軍にたいし、20日あまり戦闘を繰り返したが、3万人の新政府軍を前に9月22日若松城は陥落した。戦闘中は食料不足から飢えで苦しむこととなり、籠城中は悲惨を極めた。