二宮尊徳(二宮金次郎)|江戸時代の農政家

二宮尊徳(二宮金次郎)”> 二宮尊徳(二宮金次郎)は、相模国(神奈川県)の農業家・農政家である。主著は『報徳全書』であるが、弟子たちによって編まれた『二宮翁夜話』もある。貧しい農村時代の経験から各農村の財政改革や新地の開拓、天保の大飢饉の予測とその対策を講じるなど、多くの成功を収めた。 貧しい農民の暮らしを知る一方、確かな知識と技術を駆使して可能な限りの創意工夫を行えば、事態打開の道が開けることも確信した。自然とともに生きて自然の法則を農業生産の過程で活用するとともに技術的側面を重視し、自然の法則・営みとしての「天道」と人間の勤労や技術、叡智である「人道」を区別し、人間はまず「人道」に尽くさなければならず、自分の存在にはそれを支えている自然と人々の徳があり、この徳に報いること(報徳)が人間としてのあるべき生き方であるとした。 二宮尊徳 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 目次

二宮尊徳の略年

1787 相模国に農民の子として生まれる。
1800 父が死去し.、2年後、母も死去。
1812 小田原藩家老の服部家に奉公し、財政再建を任されて翌年成功する。
1822 小田原藩などの農村復興に従事。
1833 天保の飢饉(〜1837年) で餓死者を出さなかったことが評判になる。
1842 幕府に登用されて印旛沼開発などに従事する。
1856 死去。

二宮尊徳の生涯

二宮尊徳は、相模国(神祭川県)足柄上郡栢山村に生まれた。名を金次郎という。少年期に両親と死別し、災害と父の借金で実家が売られて一家は離散した。叔父の元で昼は農作業、夜は読書と勉学に毎日励んで、独力で再興を果たし19歳で独立した。このことが小田原藩家老の耳に入り、25歳の時、財政債権を任されたが自身の貧困経験を背景にまもなく成功を収めた。これを機に小田原藩内の農村復興を手がけ、以後周囲からの妨害や批判的な注目を受けながらもその名声はとどまることを知らず、生涯に約450もの農村復興を成し遂げる。
二宮尊徳は公務に励む一方、人間のあり方について思索し、参禅の日々を過ごした。その後も藩の土木事業や農業政策に手腕を振るった。そのような毎日を送るある夏の日に農民がもってきた茄子の味が秋茄子の味になっていることに気づいて天保の飢饉を予言し冷害にも強い稗・粟を植えさせて万が一の対策をした。それがが功を奉し、一人の餓死者を出すことなく農村経営ができた。このことが周辺地域に広まって二宮尊徳の名声は、幕府の耳に届き、幕臣として登用され、荒地の開拓にあたった。

二宮尊徳の思想

二宮尊徳は自然の営みを天道といい田畑の作物を成長させるし雑草もはやし時には災害をもたらす。一方、人間の営みを人道といい、これは天道に従う人間がつくった行為で怠けると廃れてしまうので、その戒めとして「分度」「推譲」という「報徳」の実践が大切だと説いた。尊徳によれば「報徳」は天地人への恩を自覚することで生まれる勤労への喜びである。この喜びが生活信条のもととなる勤労意欲を生み出すとともに労働の能率と質の向上がはかられて社会を活性化させる力になると考えた。

報徳思想

報徳思想は、自分が今ここにこうしてあるのは、天地・君・親・祖先などの広大な徳のおかげであり、その恩にみずからも徳をもって報いなくてはならないという二宮尊徳の根本思想である。「われわれの存在は天地人の高大な徳のおかげであり、その徳に報いるに徳の行いの実践をもってしなくてはならない」という。報徳は、分度と推譲という生活態度として具体化され、報徳仕法は農村経営で困窮を救い、安定した生活を導くものと説かれた。なお、『論語』にある「徳をもって徳に報いる」から来ている。

翁曰、我が教は、徳を以て徳に報うの道なり、天地の徳より君の徳、親の徳、祖先の徳、其蒙る処人々皆広太也之に報うに我が徳行を以てするを云、君恩には忠、親恩には孝の類、之を徳行と云、扨此(さてこの)徳行を立んとするには、先づ己々が天禄の分を明らかにして之を守るを先とす。
故に予は入門の初めに、分限を取調べて能弁へさするなりとなれば、大凡富豪の子孫は我家の財産は何程ありや知らぬ者多ければなり・・・

分度

分度とは、報徳の実践方法の一つで、自分の経済力に応じた合理的な生活設計を立てること。自分の財力を客観的に見つめ直し、その財力に応じて予算を立てて、合理的な生活設計を行わなければならない。

推譲

推譲とは、報徳の実践方法の一つで、社会の生産力を拡大するために、倹約して生まれた余裕を人びとに譲り、将来のために蓄えること。倹約して使わなかった今日のものを明日に今年のものを来年に、そして自分の代のものは子孫および他人に譲らなければならない。

報徳二宮神社

報徳二宮神社

天道・人道

農業は、二宮尊徳の思想の自然の営みである天道と人間の働きである人道との両者が相まってなり立っているとし、天道に対する報恩感謝とともに、人道をまっとうするためには、分度と推譲を大切にしなければならないと尊徳は説いた。

勤倹を尽して、暮らしを立て、何程か余財を譲る事を勤むべし、是道なり是汝が天命にして、汝が天禄なりと、皆此のを如く教ふるなり、是又心盲の者を助るの道なり、夫人るを計りて天分を定め、音信贈答も義理も礼儀も皆此内にて為すべし、出来ざれば、皆止むべし・・・・・・されば義理も交際も出来ざれば為さゞるが、則礼なり避なり道なり此理を能々弁へて、惑ふ事勿れ、是徳行を立る初なり己が分度立ざれば徳行は立ざる物と知るベし。

内村鑑三の紹介

内村鑑三『代表的日本人』の中で二宮尊徳を紹介している。

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