三国時代|魏・蜀・呉が覇権を奪い合う三国志

三国時代

三国時代とは、後漢の滅亡に伴い、台頭した地方豪族の中で、それらをまとめあげた、魏(220~265)、(221~263)、(222~280)の三国で覇権を争った時代である。中国各地で民衆の反乱が起こったが、後漢にはそれを平定する力は持たず、後漢の代わりに地方豪族がその代わりを担った。魏の曹操、の劉備、の孫権の三者によって群雄割拠する地方豪族をまとめあげた。

目次

三国時代の背景

後漢の弱体化につれて地方の豪族が台頭してきた。豪族は奴隷や半奴隷の状態の農民を使役し、その広大な土地を耕作させて豊かな生活を営み、経済力を蓄積していた。後漢末、張角の黄巾の乱(184)が起こると、それをきっかけに、中国各地の豪族は奴隷などを私兵に仕立てて反乱の鎮圧を行った。一方、反乱を平定するほどの力を持たない中央政府の権威は失墜し、豪族に官位を与えてこれを地方の安定勢力するなどの対策を行った。後漢に代わって、力のある豪族勢力を結成し、新しい王朝を建てるようになった。

三国分立

魏・の三国分立は鼎(かなえ)の三足にたとえられ、三国鼎立ともよばれる。

曹操(155~220)は、後漢の末期に献帝を擁して実権を握り、華北の大部分を平定した。その子の曹丕は献帝に位を譲らせて帝位につき、220年、後漢の都の洛陽をそのまま都とした。

曹操

曹操(155~220)は、後漢末の群雄の一人で、華北の実権を握り、全国統一をめざした。208年に赤壁の戦いで劉備・孫権の連合軍に大敗し、天下三分の形勢となった。216年、魏王となった。

(221~263)(漢・蜀漢)の建国者の劉備は前漢景帝の子孫といわれる。黄巾の賊を討って功を立て、しだいに勢力を蓄えた。側近招いた諸葛亮(孔明)は、天下三分の計を立て、四川(蜀)・湖北を領有し、成都(四川省)に都した。

(222~280)の建国者の孫権は、父祖の時代から長江下流域に拠っていた豪族である。魏・蜀に次いで独立国の体裁をとり、のち、国を呉と号し、建業(今の南京)に都した。

太平道

張角(?~184)は、後漢の衰弱を見抜くと、太平道という秘密宗教を唱え、信徒を集めて184年に挙兵した。しかし、まもなく病死し、反乱軍は曹操らによって平定された。

魏の台頭

後漢が衰退したのち、群雄割拠する時代で華北の大半を占めた魏が台頭した。魏は背後をつかれる心配をなくするため、東北地帯に兵を出し、朝鮮半島をしめた高句麗を支配し、東北地方から朝鮮半島西北部にわたる地域を支配下に入れた。

蜀の滅亡

江南の呉は魏に次いで強く、湖南・江西・福建地方を開拓し、さらに台湾・海南島(広東省)を攻めたり、インドシナ半島の開発にも専念した。蜀は最も立地条件が悪く、国も狭小であったが、雲南方面に領土をひろめ、諸葛亮の経営の才によって魏・呉に対抗した。しかし、諸葛亮の死後、263年に魏のために滅ぼされた。

魏の滅亡

を倒した魏は、二国の対立状態に持ち込んだが、魏は、魏の曹丕(文帝)の後、相続争いで混乱し、その権臣の司馬炎により滅ぼされた。

晋の建国

265年、魏帝に位を譲らせて帝位についた司馬炎(武帝)は、国を晋と号し、魏の都である洛陽をそのまま都とした。280年、宿敵のを攻め滅ぼして天下を統一した。この年をもって三国時代の終わりとする。