ヴィラフランカの和約
ヴィラフランカの和約は、1859年の第二次イタリア独立戦争の最中に、フランス皇帝ナポレオン3世とオーストリア帝国皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の間で結ばれた講和である。戦争を通じて進展していたイタリア統一の動きをいったん中断させる一方で、ロンバルディアのサルデーニャ側への移譲という重要な成果をもたらし、その後のリソルジメントの方向性を決定づけた転換点となった。この和約は、イタリア民族運動の期待と列強の思惑が鋭くぶつかり合った妥協の産物として位置づけられる。
締結の背景
19世紀前半のイタリア半島は、ロンバルディア=ヴェネツィアをはじめ広い地域がオーストリア帝国の支配下に置かれ、各地に旧来の王侯や公爵家が分立していた。これに対して、民族的統一と立憲政治を求めるリソルジメントの運動が高まり、その先頭に立ったのがサルデーニャ王国である。同国の首相カヴールは、単独での軍事力ではオーストリアに対抗できないと判断し、フランスとの提携を模索した。その結果生まれたのが、1858年のプロンビエール密約であり、そこでフランスとサルデーニャはオーストリアに対する共同戦争と、戦後のイタリア再編を約束した。こうして1859年、第二次イタリア独立戦争が勃発し、マジェンタやソルフェリーノの戦いなどで連合軍は相次いで勝利を収めたが、その犠牲の大きさと緊張の高まりはフランス側に深刻な負担を与えることになった。
ヴィラフランカでの会談と和約成立
激戦ののち、戦場の悲惨さとヨーロッパ全体の均衡悪化を恐れたナポレオン3世は、サルデーニャ首相カヴールの意向を待たずに、オーストリア皇帝との直接交渉に踏み切った。1859年7月、ヴェローナ近郊の保養地ヴィラフランカで両皇帝は会談を行い、そこでヴィラフランカの和約がまとめられた。この和約は、フランスとオーストリアの間で急ぎ合意された性格が強く、形式的には休戦協定であり、その後のチューリヒ条約によって法的に確認されることになるが、イタリア半島の政治地図を大きく書き換える枠組みを提示した点で決定的な意義を持った。
和約の主な内容
- オーストリアはロンバルディアをフランスに譲渡し、フランスはこれをサルデーニャ王国に移譲する。
- ヴェネツィアはオーストリアの支配下にとどまり、完全なイタリア解放は先送りされる。
- トスカナやモデナなど中部イタリアの諸公国では、戦争中に追放された旧支配者を原則として復位させる。
- 教皇を名目的な盟主とする「イタリア邦連」の構想を掲げ、各国君主制を前提としたゆるやかな統合を想定する。
以上のように、ヴィラフランカの和約は、サルデーニャ側にロンバルディア獲得という成果を与えながらも、ヴェネツィアの解放や中部諸国の民族運動を十分に反映するものではなかった。そのため、イタリアの愛国派や急進派からは不完全な妥協として受け止められ、統一運動の最終的な目標とは大きな隔たりが残されたのである。
カヴールの反発とイタリア統一運動への影響
サルデーニャ政府の中心人物であったカヴールは、自らを介さずにフランスとオーストリアが講和を結んだことに激しく憤り、この和約に抗議して一時的に辞職した。彼にとって、ヴィラフランカの和約は、せっかくの軍事的勝利を十分に政治的成果へと転化できなかった「未完の和平」であり、イタリア民族の期待を裏切るものと映ったのである。しかし実際には、ロンバルディアがサルデーニャ王国に編入されたことは、その後の統一の足場を大きく拡大させる結果をもたらした。中部イタリアでは住民投票を通じて旧支配者復位を拒否する動きが強まり、やがてこれら諸地域がサルデーニャへの併合を求める流れが形成されていく。
その後の展開とイタリア統一への道
和約後、フランスとサルデーニャの関係は、サヴォイアとニースの割譲問題などをめぐりつつも、最終的にはチューリヒ条約やトリノ条約によって調整され、ロンバルディアの帰属は確定した。一方で、イタリア民族運動のエネルギーは衰えず、やがてガリバルディによる「千人隊」の遠征や南部征服へと結実する。こうして1861年にはイタリア王国が成立し、北部と中部の多くが統一王国のもとに統合された。ヴェネツィアやローマ教皇領の問題はなお残されたものの、ヴィラフランカの和約がもたらしたロンバルディアの獲得とそれに続く政治的連鎖は、結果としてイタリア統一を大きく前進させたと評価できる。つまり、当時の愛国派が抱いた失望とは裏腹に、この和約は長期的には統一達成への「不完全ながらも重要な一歩」として歴史の中に位置づけられているのである。