ロンドン軍縮会議|海軍軍備制限の国際会議

ロンドン軍縮会議

ロンドン軍縮会議は、1930年にイギリスのロンドンで開かれた海軍軍縮会議であり、第一次世界大戦後の海軍制限体制を調整・延長することを目的として開催された。1921〜1922年のワシントン会議で成立した海軍軍備制限の枠組みを基礎としつつ、巡洋艦・駆逐艦・潜水艦など補助艦艇の保有量をめぐって列強が交渉し、最終的にロンドン海軍軍縮条約が締結された。

開催の背景

第一次世界大戦後、列強は軍備縮小と国際協調をめざし、国際連盟体制の下で安全保障を模索していた。海軍力については、すでにワシントン会議で主力艦の保有比率が定められたが、巡洋艦など補助艦艇は依然として競争が続いた。また、戦後賠償や財政難、ドイツ賠償問題やルール占領などの緊張を経て、1920年代半ばにはロカルノ条約ブリアン=ケロッグ協定不戦条約といった戦争違法化・集団安全保障の試みが進んだ。その流れの中で、補助艦艇を含めた一層の海軍軍縮を実現する場としてロンドン軍縮会議が構想されたのである。

参加国と交渉の構図

ロンドン軍縮会議には、イギリス、アメリカ、日本、フランス、イタリアの五大海軍国が参加した。イギリスは世界的な海上交通路防衛の負担から軍事費削減を強く望み、アメリカも財政負担と世論の軍縮志向から補助艦艇の制限に前向きであった。これに対し、日本はワシントン体制下の戦艦「5:5:3」の比率に不満を抱きつつも、政党内閣の下で国際協調路線を維持しようとした。フランスとイタリアは地中海での安全保障や植民地防衛をめぐり独自の主張を展開し、補助艦艇の基準や比率をめぐって各国の利害が鋭く対立した。

ロンドン海軍軍縮条約の内容

ロンドン軍縮会議の結果、1930年にロンドン海軍軍縮条約が締結され、ワシントン条約とあわせて海軍軍縮体制が再編された。条約の主な内容は次のように要約される。

  • 主力艦については、ワシントン条約による保有制限と比率をおおむね維持しつつ、有効期限を延長した。
  • 補助艦艇としての巡洋艦・駆逐艦・潜水艦に総トン数の上限を設定し、イギリス・アメリカ・日本の間で新たな保有比率を定めた。
  • 巡洋艦を火砲口径などで区分し、重巡洋艦と軽巡洋艦それぞれの保有数・トン数を制限した。
  • 潜水艦戦に対しては、商船攻撃の際に捕獲規則を守るなど、国際法上の規制を改めて確認した。

これらの規定は、1927年のジュネーヴ海軍軍縮会議ではまとまらなかった補助艦艇問題に一定の決着を与えるものであり、ワシントン体制の補強として理解される。

日本国内の統帥権干犯問題

ロンドン軍縮会議は、日本国内政治において「統帥権干犯問題」を引き起こした。浜口雄幸内閣と協調外交を担う幣原喜重郎外相など政党政府は、国際協調と財政負担軽減の観点から条約受諾を推進したが、海軍内部の強硬派は、補助艦艇の比率が日本海軍の作戦構想を制約するとして強く反発した。その際、外交・条約締結を担う内閣と、軍令を司る天皇大権である統帥権との関係が争点となり、野党や軍部は政府が海軍の統帥権を侵したと攻撃した。この対立は、日本の政党政治を弱体化させ、後の軍部台頭へとつながる一因となった。

意義とその後の展開

ロンドン軍縮会議は、ワシントン体制のもとで行われた軍縮外交の到達点とされ、海軍軍備を国際協定によって管理しようとする試みの一環であった点に意義がある。また、ジェノヴァ会議以降続いてきた経済・安全保障問題の調整の流れの中で、軍事負担軽減を図る取り組みでもあった。しかし、条約によって各国の不満が完全に解消されたわけではなく、日本やイタリアには依然として格下扱いの認識が残った。1930年代半ば以降、世界恐慌の深刻化と国際協調体制の動揺により、海軍軍縮体制は次第に形骸化し、やがて列強は再軍備へと向かっていくことになる。