ルターの生涯

ルターの生涯 1433-1546

1483年、中部ドイツのアイスレーベンに生まれる。鉱山労働者の子として生まれる。エルアルト大学で法律を学ぶが、豪雨の中、生命の危機を感じたのをきっかけに、アウグスティヌス修道会に入り、厳しい修道院生活を送る。1508年、ザクセン選帝侯のお膝元ヴィッテンベルクの修道院に移り、創立まもないヴィッテンベルク大学の神学の教授となる。修道院生活を追求する中で、聖書研究に突き進んだルターは、人はただ信仰のみによって義とされる信仰義認論、そしてその拠り所は聖書しかないという聖書主義に信仰原理を見出し、聖書を独占的することによって権威を保っていたカトリック教会と対立していく。

ザクセン選帝侯フリードリヒ賢候

ザクセン選帝侯フリードリヒ賢候

目次

カトリック教会からの破門

1519年のライプツィヒ討論教会にて神学者ヨハネ・エック(1486-1543)との論争で教皇の権威を否定し、カトリック教会と決定的に対立する。教皇レオ10世は1520年に破門威嚇勅書を出し、ルターの主張の撤回を求めるが、同年、宗教改革の三大論文である『キリスト教界の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族に与える』、『教会のバビロン捕囚について』、『キリスト者の自由』を発表した。これを受け、1521年に教皇レオ10世は勅書『ローマ教皇にふさわしく』を発し、正式にルターを破門に処した。その後、神聖ローマ皇帝カール5世は4月にヴァルムス帝国議会を開催して、ルターに弁明の機会を与えたものの、撤回を拒否したためヴォルムス勅令を発し、神聖ローマ帝国の法律保護外に置かれることとなった。

ザクセン選帝侯フリードリヒ賢候の庇護

カトリックから破門されたルターに救いの手を差し伸べたのは、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢候であった。彼はヴァルトブッルク城にかくまう。このとき聖書のドイツ語訳を行う。一方、その間、ヴィッテンベルクでは、アンドレアス・カールシュタット(1486-1541)が聖画像の撤廃など急進的に改革を行っていた。これに危機を感じたザクセン選帝侯フリードリヒ賢候は、ルターをヴィッテンベルクに戻し、内面的な変革を行う前に外面的な変革を急がないよう説教を通じてヴィッテンベルク騒動事件を終息させた。(その後、アンドレアス・カールシュタットはドイツを追われ、各地を転々としたあとスイスの宗教改革者と協力するようになる。)

結婚

ルターは聖職者も結婚すべきと考えていたが、自身もまた、1525年、カタリーナ・フォン・ボーラという還俗した元修道女と結婚する。このルターの結婚観は社会的影響が大きく、宗教改革運動が開始されると、各地で多くの修道士や修道女もまた修道院を去り、次々に結婚した。ルターの結婚の経緯は次のとおりである。1523年、カトリックのザクセン大公領邦のグリマにあるシトー会ニンプ修道院の修道女たちにルターは修道院から脱出するようにすすめた。ルターの知人が12に人の修道女を逃し、3名は自宅に帰ったが、9名はルターの住むヴィッテンベルクに滞在した。当時、女性は結婚するしか生活の術がなく、次々と結婚したが、カタリーナ・フォン・ボーラという娘だけが残った。当時、ルターの周りの独身の男性が少なく、その二年後、1525年6月13日にルター自身が彼女と結婚することとなる。この結婚は、宗教改革の進展を推し進める象徴になった。ルター自身も「神が私に与えたものであり、私は彼女に与えられたものである。」といい、幸せな結婚生活であった。