ベトナム反戦運動|ベトナム戦争に対する反戦運動

ベトナム反戦運動

ベトナム反戦運動とは、ベトナム戦争をめぐる反戦運動でアメリカを中心に世界中で行われた。、アメリカ国内では、賛成派と反対派に世論が二分したが、連日、ベトナム戦争で傷つく兵士や虐殺する場面が報道され、反対運動が盛り上がった。またアメリカ公民権運動と連携をとるようになり市民運動として展開した。ベトナム戦争を支援した日本でも活発になった。

報道

報道の自由を重視するアメリカ軍は、攻撃作戦に報道陣の同行を許し、ヘリコプターにも同乗させ、あらゆる便宜をはかった。その結果、アメリカ軍の残虐な行為も、アメリカ軍の傷つく兵士や若者の死体もまたテレビに映し出された。ベトナムの解放を信じた国民は、懐疑心をもつようになる。

アメリカ兵の虐殺

北ベトナムや解放戦線が展開したゲリラ戦に追い詰められたアメリカ兵は、ヘリコプターから捕虜を突き落とす、村人を無差別に砲撃する、ただ単に虐殺するなどの行為が行われた。農民に紛れたゲリラ部隊は農民と兵士の区別がつかない状況であった。このことが世界中に報道された。

公民権運動

反戦運動は、公民権運動とも連携を強め、アメリカ各地でデモや集会で行われた。

ベトナム反戦国際統一運動

1967年10月21日、ワシントンには10万人が集まったベトナム反戦国際統一運動が行われた。

ソンミ村の集団虐殺

1968年3月16日、解放戦線を探してソンミ地区に入ったアメリカ陸軍の一部隊が、老人や婦女子ばかりの無抵抗の農民160人を虐殺した事件が起こる。ソンミ村の集団虐殺が報道され、虐殺された農民の写真が公開されると、アメリカ国民に衝撃が走り、アメリカ軍のベトナムの状況に疑問の声が上がった。責任者のウイリアム・カリー中尉は、ソンミ村の集団虐殺の発覚後、逮捕され、軍法会議で終身刑を宣告されたが、ニクソン大統領の特赦で20年に減刑され、1975年には仮釈放された。

アメリカの戦争犯罪を裁く国際法廷

Bラッセル博士によって、スウェーデンのストックホルムで開かれた、アメリカの戦争犯罪を裁く国際法廷が開かれた。

反対デモに対する発砲

1970年5月、オハイオ州立大学のケント校で、デモに参加していた学生に対して、鎮圧に出動した州兵が発砲し、学生4人が死亡する事件が起きた。

CBSイブニング・ニュースによる批判

当時もっとも影響力を持っていたCBSの「イブニング・ニュース」のウォルター・クロンカイトはベトナム戦争を厳しく批判した。彼自身の手で、ベトナムを取材し、『クロンカイトのベトナム報告』という特別番組を作り放送した。クロンカイトの踏み込んだ発言は、アメリカの世論に大きな影響を与え、ベトナム戦争の勝敗を決めた主要因のひとつとなった。

ベトナム反戦集会

日本では総評などの労働組合が反戦ストライキを実施し、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)に代表される市民活動が活発化した。アメリカ政府のみならず、アメリカに協力する日本へも反戦を要求した。

ベトナム戦争からの帰還兵

ベトナムで地獄を見たベトナムの帰還兵は、アメリカに帰国してからも厳しい現実にさらされることになる。ベトナム帰り」というだけで、「ベトナムで残虐な行為をしていたと噂され、差別の対象となり、友も離れ、再就職が困難な現実があった。

アメリカ兵に対する罵声

ベトナム戦争への反対は強まり、政府の高官やベトナムから帰還したアメリカ兵に対して、「赤ん坊殺し」との罵声をあげた。ベトナムでの悲惨な体験を終えて祖国に帰国したアメリカ兵の前で罵声や罵倒される事態は、アメリカ兵の士気を落とし、地獄を見た兵士たちは、精神的に社会復帰できないほど追い込まれた。大量の兵士がベトナム戦争後のPTSDに苦しむことになる。

報道規制

ベトナム戦争の戦場の実態が連日連夜メディアに報道され、アメリカ世論の方向性を決めつけた。アメリカ軍はメディアに最新の注意が図られ、特に湾岸戦争では、厳格な報道管制がしかれた。