台湾・中国問題|台湾独立問題とはなにか

台湾・中国問題

日清戦争以降、台湾は日本の領土として認められ、日本支配に置かれ、日本の制度や教育を導入することによって、中国と変質していく。第二次世界大戦後は、国民党率いる蒋介石の支配下に置かれ、中国国内の国民党と共産党の構図が中国と台湾との構図に取って代わる。朝鮮戦争をきっかけに台湾はアメリカの支援を受けることによって冷戦状態となり、台湾・中国問題が生まれた。

目次

日本による植民地

1894年から1895年が続いた日清戦争で、清に勝った日本は、1895年の「下関条約」で、台湾を清から獲得する。当時の台湾島は、産業もなく、人口も少なく、清の政府にとっては、魅力のない領土と考えていた。台湾を植民地支配することになった日本は、台湾の台北に「台湾総督府」を置き、日本から派遣された台湾総督が台湾を支配した。

軍事鎮圧

台湾の住民は日本の支配に抵抗したが、軍事力を背景にして鎮圧した。日本軍によって戦死・刑死した住民は1万人を超えるといわれる。鎮圧してからは軍部や警察によって厳しい監視体制が敷かれた。

同化政策

日本は台湾に対して徹底した同化政策を行い、台湾各地に神社を建て、日本語教育、天皇への崇拝教育を実行した。義務教育制度を導入することで、読み書きできる人の数も飛躍的に増大した。

インフラ整備

日本は、台湾への産業の発展の基礎も築いた。全島に道路や鉄道、港湾を整備し、農地を整備したことで、台湾の産業は飛躍的に発展した。

国民党

太平洋戦争での日本の敗北により、台湾は、中国大陸の中華民国に返還された。中華民国は、蒋介石の国民党が支配しており、台湾の住民は、他国である日本の支配から、祖国への帰還に国民党の軍隊を喜んだが、大陸から来た兵隊たちは、まともな軍服を着た者はおらず、みなボロをまとい、鍋釜をかついでいた。台湾の住民はその光景に失望し、今後の不安を抱えたといわれている。

国民党による搾取

中国本土では、国民党と共産党の内戦が過激化し、国民党政府は、生活必需品を台湾から大陸に輸送した。また、戦費を調達するため、台湾の通貨を大量発行することで、インフレリスクを台湾住民に押しつけ、物価が上昇する。物不足と物価の値上がりが台湾住民は国民党政府に対して不満と怒りを抱くようになる。

二・二八事件

1947年に台北で闇たばこを売っていた女性が取締官に殺されたことをきっかけに台湾全土で大暴動が起こる。それを鎮圧するため、台湾の陳儀行政長官は国民党の軍隊をまって、台湾の住人の虐殺を行った。

中華人民共和国の成立

国民党との内戦に勝利した中国共産党は、1949年10月1日、毛沢東が北京の天安門から中華人民共和国の成立を宣言した。中国共産党が支配する大陸の中華人民共和国と、支配地域が台湾だけになってしまった国民党の中華民国という対立の構図が生まれ、ここから中国台湾の衝突が生まれた。

朝鮮戦争

国民党の腐敗にアメリカは見捨てて、中国共産党の毛沢東は体制が整い次第、台湾への侵攻を画策していたが、1950年6月25日、朝鮮戦争が始まると状況が一変する。1950年6月27日、アメリカは第七艦隊を台湾海峡に派遣して、大陸の中国が台湾を攻撃しないように牽制した。さらに北朝鮮につく中国に対抗して台湾を経済的・軍事的支援を行った。朝鮮戦争はアジアでも冷戦構造を生み、対立構造が拮抗することになる。

中国の混乱

朝鮮戦争後、中華人民共和国は、毛沢東の指導のもと、「大躍進政策」の失敗や文化大革命の混乱などが相次ぎ、経済は停滞して、何百万人もの犠牲者や飢餓に陥った。

台湾の経済発展

国民党が支配する台湾は、経済的改革を実施して大きな経済成長を果たした。台湾の農地改革を実施し、古くからの大地主の土地を農民に分け与えた。自分の土地を持った農民の生産意欲が向上し、台湾の農業は発展する。また、農村が豊かになると、農産物の輸出が進み、海外との自由貿易も順調に進んで、驚異的な経済発展を達成した。日本をはじめ世界のコンピューター製品の多くは、台湾で生産されています。1998年時点では、国民ひとり当たりの所得は、大陸が774ドル、台湾が1万2040ドルと圧倒的な差が存在していた。

国際連合

第二次世界大戦後に発足した中国は常任理事国として構成されたが、このときの中国とは、のちに台湾におわれることになる中華民国であったが、1971年、常任理事国の権利は、中華民国を追い出した中華人民共和国にあると採決され、それとともに中華人民共和国との国交を結ぶ国が増えていき、日本やアメリカもまた中国と国交を結んでいった。一方で台湾は国交が断絶して孤立していく。しかし、アメリカは、「台湾関係法」というアメリカ国内の法を作り、万一台湾の安全が脅かされる事態になったとき、台湾を支援する仕組みは継続している。

蒋介石の死去

経済的には発展したが、政治的には非民主的、という状態が長く続いた台湾は、1975年、独裁者の蒋介石が亡くなると、民主化が進むことになる。一時的に副総統が後を継いだが、1978年、蒋介石の息子の蒋経国(しょう・けいこく)が総統に就任した。

蒋経国

蒋経国は台湾の民主化に注力し、1987年7月、戒厳令に解除する。「外省人」支配の国民党の中で、自分の後継者になる副総統に、「内省人」である李登輝を抜擢した。

李登輝

1988年、蒋経国総統が死去し、副総統だった李登輝が総統に昇格した。初めての本省人の総統の誕生し、李登輝総統のもと、台湾の民主化が急速に進むことになる。政治犯を釈放し、報道の自由を認め、国民党に反対する野党の存在も認めた。

中国変換方式

中国は、香港やマカオと同様の「中国返還」方式を提案している。香港やマカオは、資本主義経済で中国とは異なる制度であるが、その制度の違いを認めた上で、同じ中国に帰属する、「一国二制度」を提案している。台湾も香港やマカオ同様、台湾の政治、経済、軍事はそのままにして、「ひとつの中国」への統一を目標としている。

中台の駆け引き

台湾側は、実質的な台湾独立を少しづつ国際社会に認めさせる方針で、それを阻止したい中国政府の駆け引きが続いている状況にある。特に近年では、中国経済の発展からパワーバランスが中国に傾いている。

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