マルティン・ハイデガー|存在と死に対する哲学者

マルティン・ハイデガー Martin Heidegger

ハイデガー(1889.9.26 – 1976.5.26)は、ドイツの哲学者である。存在論や実存主義で高い評価を得た。主著は『存在と時間』『ヒューマニズムについて』。ハイデガーは、初期においては存在の現象に関心をもち、存在の意味を了解している現存在を探究し、時間的存在、死への存在の自覚が現存在に至らしめるとした。後期においては、人間を主体として存在へ向かう立場を離れ、人間は存在が明らかになる場の体現者あるいは提供者、すなわち、存在から人間へ向かう立場に立った。人間は存在するものへ向かうのではなく,存在が明らかになる場にある存在(脱自存在)であるとした。

ハイデガー

ハイデガーの生涯

ハイデガーはドイツ南西部メスキルヒに牧師の子として生まれる。1909年、20歳の時、フライブルク大学に入学し、神学と哲学を学び、キルケゴールの影響を受けた。当初は聖職者を目指したものの、哲学研究に転向する。フッサールから現象学を学び、現象学的手法のもとに存在論を研究し、存在を了解している現存在を起点に存在の意味を探究した。フライブルク大学の私講師(無給の講師)、マールブルク大学の教授となり、1927年、『存在と時間』が発表されると哲学の世界に大きな影響を与えた。1933年、39歳の時、フライブルク大学教授に就任し、44歳の時にはナチスに入党し、大学総長に就任する。総長就任講演でナチスを支持し、学生たちにドイツ民族への奉仕を訴えた。やがて、ナチスに失望し、思索の仕事に戻っていったが、戦後はナチスへの協力の理由で教職から追放された。トートナウベルクの山荘で思索の日々を送り、1951年には復職している。晩年は哲学的思索に耽り、存在について探究し続けた。

現存在

現存在とは、ハイデガーのいう、本来的な存在のことである。「現存在」とは、「世界☓内☓存在」としての自己を見つめ、世界の中に投げ出され、他の人々や事象と関わり、あるいは共存して、それらへの配慮と交渉の中で生きていることである。
また「現存在」は、人間が“死への存在であること”を引き受けなければならない。人間が人間として生まれた限り、必然として死が存在している。しかし、死を見つめることはつらく、人間は気晴らしや享楽の中に身をおいて、死への存在であることを忘れようとし、また逃れようとする。しかし、本来的自己である「現存在」はその事実を受け入れ、不安の中で真の実存を確立していかなければならない。また、人間は「現存在」であることの事実性を気分的に感じている。しかし、人間はこの気分を言語によって具体化する。ハイデガーは、人間のこのような存在性格を開示部と呼び、次の三つの要素を認めている。三つの要素とは、気分性、理解性、語ることである。気分性ゆえに人間は、あれこれと設計する。

ひと(ダ ス-マン)

「現存在」の対立概念が「ひと(ダス-マン)」で日常生活に埋没して平均化・画一化され、没個性的となった非本来的あリ方。

『存在と時間』ハイデガーからの引用

人間というこの存在者をわれわれは述語的に現存在と表現する。…現存在がこのように際立っていることを暫定的に看取できるようにすることが肝要である。
・・・現存在は、他の存在者のあいだで出来(しゅったい)するにすぎない1つの存在者ではない。現存在が存在的に際立っているのは、むしろ、この存在者にはおのれの存在においてこの存在自身へとかかわりゆくということが問題であることによってなのである。
だが、そうだとすれば、現存在のこうした存在機構には,現存在がおのれの存在においてこの存在へと態度をとる或る存在系をもっているということ、このことが屈している。しかもこのことは、これはこれで、現存在が、なんらかの仕方で表立っておのれの存在においておのれを了解しているということにほかならない。
この存在者に固有なのは、おのれの存在とともに、またおのれの存在を通じて、この存在がおのれ自身に開示されているということである。存在了解はそれ自身現存在の一つの存在規定性なのである。現存在が存在的に際立っているということは、現存在が存在論的に存在しているということによる。

『存在と時間』ハイデガー2

現存在はおのれ自身を、つねにおのれの実存から、つまりおのれの自身であるか、あるいはおのれ自身でないかという、おのれ自身の可能性から了解している。

投企、世界内存在

人間は一定の環境に投げ込まれながらも、ここから外へ自己を投げ返そうと、いろいろ試みる。これを投企という。投企するためには前もって理解が必要であり、語ることによってそれを実現しなければならない。人間は語る存在者であり、語ることの中にこそ、存在の住居がある。さて、被投的なるがゆえに投企は、人間存在の有限性、死に対する決意に基づいている。死への存在、とか死への先駆的決意性といった言葉は完結しない実存を予想し、決然とこれに立ち向かうことによって、自己の最終的有限性と究極的無を承認することである。それは個々の事柄に対する恐怖と異なり、常に「世界のうちにある、世界内存在」という全体と関わる。あらゆる驚異にも勝る驚異なのである。

存在者が世界の内部で事物的に存在している存在者に接することができるのは、その存在者が初めから内存在という存在様式をもっているときだけなのである-その存在者が、現にそこに開示されて存在しているのとともに、世界といったようなものが、その存在者にすでに暴露されていて、この世界のほうから存在者が、接するというかたちをとって、おのれをあらわにすることができ、かくしてその存在者の事物的存在において近づきうるものになるときだけなのである。・・・・・・

現存在の世界内存在は、現存在の現実性とともに、内存在のもろもろの特定の在り方のうちへと、おのれをそのつどすでに分散したり、それどころか寸断したりしている。内存在のそうしたもろもろの住り方の多様性は、以下のようなものをあげることによって、範例(はんれい)的に暗示される。すなわち、何かにかかわり合っている、何かを作りだす、何かを整理し世話する、何かを役だてる、何かを放棄し紛失する、企てる、やりとげる、探知する、問いかける、考察する、論じあう、規定する等々が、それである。 内存在のこれらもろもろの在り方は、配慮的な気遣い〔関心〕という、さらに立ち入って性格づけられるべき存在様式をもっている。配慮的な気遣いという在り方に属するものには、中止、怠慢、断念、休息という欠損的様態もあれば、配虚的な気遣いの諸可能性に関連する「わずかに・・・・・・しかしない」というすベての様態もある「配慮的な気遣い」という名称は、差しあたっては、その前学問的な意義をもっているのであって、何かを遂行する、片づける、「さっぱりと処理する」ということであることがある。

頽落

未知な死に先んじて、いかなる存在の在り方をもつのか。ハイデガーは、人間の本来的、非本来的なあり方という二つの存在可能性を指示している。もちろん、死に先んじる在り方のことであるが、たいていの場合、隠されて日常を生きており、これを頽落と呼び、このような人間一般を平人と呼んでいる。ハイデガーの時間概念は常に未来に優位が置かれている。しかし、それは死という限界を持つ有限的な未来を前提としている。未来は未来は現在に招来し、帰還するものである。すなわち、未来は時間的に現在に熟する、時熟するものである。生と死との間の諸々の出来事が、時間との関連によって歴史を形成する。

存在と存在者の存在

ハイデガーの哲学探究は常に具体的な個々の人間存在に向けられている。‘なにであるか’(本質)ではなく、〝いかにあるか〟(存在)を問おうとしたのである。「存在(sein)」とは常に「存在者の存在(sein des seienden)」を意味し、存在者を存在者として規定するものである。また、存在者の存在様相(現存在)でもある。ハイデガーはこれを術語的に「現に存在すること(Dasain)」と呼んでいる。ハイデガーの問おうとする存在者の存在とは、存在者一般の存在のことではない。存在者の存在についてである。この場合、方法的に大切な点は、人間存在の分析を行い、次に、存在者の一般の存在を明らかにしようとするハイデガーの立場のものである。あらゆる存在者のうちで、存在を問題とし、存在論を可能にするのは人間だけである。この能力は人間に特権付けられた例外的な存在「現にあること」に他ならない。この「自己の存在に関わる」ということは、人間がすでに何らかの形で自己の存在に対して理解や責任を持っていることを意味する。ハイデガー的に言えば、存在理解をもっているのである。この点から現存在としての人間は、存在論的(ontologich)な在り方をするものと結論し、他の存在者の存在的なあり方と区別している。

実存

そして、人間がその存在に関わるあり方を実存(existenz)と呼び、人間の本質は、その実存から理解するべきだと強調する。実存の問題は自己の存在に関わること、実存することによって純化される。これはいまだ、実存的と呼ばれるものであって、存在論をつくりあげていない状態である。このため実存することの構造分析、人間の実存論的理解が必要である。この性格を示すものを、カテゴリーと区別し、実存的カテゴリーと呼んでいる。これはもっとも根源的基礎的な存在構造から人間の本質を規定しようとする彼の方法的意図から捉えられた。このような方法を持つ自己の形而上学を基礎的存在と呼び、「人間の本性に属する形而上学」に基礎を与えるものとしている。

世界☓内☓存在

自己の存在に関わることすなわち実存することは、「常に自己自身であること(常自性)」と同義である。このような存在様相の根本構造をなすもの、それは世界の中にあること、世界×内×存在である。このため、実存という人間の存在様式に先立って、世界×内×存在の構造分析が必要である。内にあること、内×存在とは、延長や広がりを持つ空間の内部における存在者相互の存在関係でも、また主観客観の関係でもない。それは自己の自己自身への関係であるとともに、他の存在者への配慮の仕方である。世界とは、自己と事物との空間的な距離でも現存在すべてのものの外的な融和でもない。本質的に自己自身への関係として、ある目的のために意志する全体が世界である。人間は世界×内×存在であることによって、この環境から自己を外へと脱出させる。つまり脱我する実存として、常に自分自身であることを可能にするのである。

存在忘却と近代技術批判

「死へとかかわる存在」であることを忘れた「ひと」としての現存在の非本来的なあリ方をハイデガーは「存在忘却」とよんだ。特に後期では近代技術批判として「存在忘却」を展開した。近代以前において事物存在は、農民が育てた農作物のように、制作・作品的な存在性格を有していた。しかし近代技術は、鉱山での鉱夫による石炭採掘のように、事物の制作・作品的な存在性格を奪い、工業生産のための物的・人的資源としての存在に変質せしめた。このように、存在が自らのよりどころを失った状況をハイデガーは「故郷の喪失」と呼び、その要因となった近代技術を厳しく批判した。

『存在と時間』

『存在と時間』(1929年)前期ハイデガーの存在論を書かれている。存在の意味を問うために、まず存在を了解している人間のあり方を現存在として分析する、基礎存在論を展開した。

『形而上学とは何か』

『形而上学とは何か』(1929)のハイデガー中期の作品で、不安の中で日頃慣れ親しんでいる存在者が、無意味の中の、不気味な無の体験を通して、存在者では無いものとしての存在が明らかになる。「無の明るい夜」の中での存在との出会いについて述べている。

『ヒューマニズムについて』

『ヒューマニズムについて』(1947)は、ハイデガー後期の作品で、存在者を支配する従来の人間中心主義をこえて、自己中心性を脱出して存在のただ中に立ち、存在のあらわれ(真理)を見守る「存在の牧人」としての人間のあり方を説く。

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