フリードリヒ・ニーチェ|哲学と思想,神は死んだのだ

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ Friedrich Wilhelm Nietzsche

ニーチェはドイツの哲学者である。主著は『ツァラトゥストラ』、『力への意志』、『善悪の彼岸』。実存主義者。キリスト教は香車に対する弱者のルサンチマン(怨恨)からうまれる、奴隷道徳であり、人間の主体的な生き方を阻む。人間の堕落とニヒリズムの原因をキリスト教にあるとした。ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、こうしたキリスト教を捨て、人間に本来備わっている生命力の自覚を重視し、既存の価値が崩壊した時代に超人説を説いた。我々は“力への意志”を持ち、新しい価値を創造しながら生きることが望まれる。自覚的に人生を生きる超人こそニヒリズムを克服する存在であるとした。(参考:ニーチェのニヒリズム

目次

ニーチェの略年

1844年 ドイツのザクセン州レツケンに生まれる。
1864年 ボン大字に入学し、神学・古典文献学を学ぶ。
1865年 ライプツィヒ大字へ転学。
1869年 バーゼル大学員外教授に就任。
1872年 『悲劇の誕生』出版。
1879年 偏頭痛のため大学を辞職
1882年 『権力への意志J出版。
1885年 『善悪の彼岸』出版。
1886年 『ツァラトゥストラ』出版。
1889年 トリノ広場で倒れ発狂、精神科病院に入院する。
1900年 錯乱状態のまま死去。

ニーチェの生涯

ニーチェは、ドイツのザクセン州にルター派の牧師の子として生まれた。父親からは厳格な宗 教教育を受けた。幼少より学問に優れた才能を発揮し、大学では神学と古典文 献学を学ぶ一方で、ショーペンハウアーの厭世主義(ペシミズム)の強い影響を受けた。音楽家ワーグナーと交友関係を結び、彼の楽劇に「ディオニュソス的精神」を見出す。その後、古典文献学研究が高く評価され、24歳の若さでバーゼル大学の教授となり、28歳で『悲劇の誕生』を出版する。しかし、学界からは孤立した。その後、偏頭痛に悩まされ、35歳で大学を辞職し、交友関係においてもルー=ザロメとの恋愛スキャンダルやワーグナーと絶交するなど、後半生は波乱に満ちたものとなった。
持病と戦いながら、思索と執策に励む日々を送り、1882年『権力への意志』、1885年『善悪の彼岸』、1886年『ツァラトゥストラ』などを執筆した。45歳の時、進行性麻痺症のため発狂して結神病院で入院生活を送り、死去した。

ニーチェの人間観

ニーチェは理性的人間観を否定し、新たに人間を行動的・身体的存在として捉えることにより、根源的・全体的な人間観を提示した。しかし、このことによって意識的・精神的存在としての人間の側面を否定したのではない。それらは、人間理性の一部として「小さな理性」であり、この「小さな理性」を根拠とし、これに包含される。行為的・身体的存在としての人間とは、この「大きな理性」である。つまり、「小さな理性」である自我は「大きな理性」である自己(selbst)を根源とするものであり、「大きな理性の小さな道具である」に過ぎないのである。その背後には自己があり、「身体」が生じるのであり、この「身体としての私」が本物の私である。「あなたの最善の知恵の中よりもあなたの身体の中に多くの理性がある」「人間の本質が身体である」とはどういうことか。

  1. 人間は本質的に理性的存在であるとする理性主義への批判。
  2. 人間は生存するものではなく生成するものである。
  3. 人間の本質が生成であるとは、創造性が人間的生の根源的意味である。
  4. 人間は過度的存在である。
  5. 形而上学的価値の一切を否定する。

この独自の人間観をディオニュソス的なものとして説く。ディオニュソス神は、生命的衝動と情念の神として、激情と陶酔と狂乱とを特徴としている。創造も破壊も生命も生命力の豊穣によるものであり、想像の喜びも破壊の苦悩も同時に包含し、しかも無限に創造する神である。ニーチェが「永遠に自分自身を創造し、また永遠に自分自身を破壊する働きとしてのディオニュソス的世界」というとき、一面では生の永遠と回帰を、他面では、苦悩と破壊と絶滅への意志であることを示している。この躍動する奔放なこの生命力に対し、調和と均整の神であるアポロを対置する。アポロは美の神であり、光と造形の神であり、その予言は中庸の美徳を示すものである。この「ディオニュソスとアポロ」の調和に独立の美術的美を見出している。アポロの美と調和の形式美はディオニュソスの創造意志にひとつの秩序を与えることにより、根底からの調和を生み出すのである。アポロの美はこのようにして、ディオニュソス的生命意志の力動性によって保たれていたのであり、アポロの形式美にはそのないようとして、ディオニュソスの創造的生命意志があったのである。古代ギリシアにおけるアッティカの悲劇は、このアポロとディオニュソスの最高の調和であった。それはまた、ディオニュソスに象徴される生の根底にある苦悩、生そのものに内在する虚偽と廃頽を内包した生がアポロの美へと純化高揚する最高の瞬間であった。生きんとする意思の根源をディオニュソス的なものに見出したニーチェはさらに「生の矛盾と疑惑をわが身のうちへと摂取して、救済する精神の典型」をそこに見る。救済するとは、矛盾、虚偽、頽廃を内包した生が、まさに人間の生の事実であることを知り、この現実の生の中から現実の生を通して自らを救う世界観を示した。しかし、それはキリスト教やプラトン主義のような救いではなく、ディオニュソス的生の意味をあくまで大地の生として説いている。

芸術論

古代ギリシアの精神にもとづき芸術面についてアポロン的なものとディオニュソス的なものにわけられる。アポロン的な芸術は仮象の美、夢や創造、現実を超えた「より高い真実」であり、詩や造形芸術などである。ディオニュソス的な芸術は恍惚、陶酔、忘我、恐怖であり、音楽、舞踏、根拠律(因果律)の裂け目であり、芸術はアポロンとディオニュソスの遊戯である。

キリスト教批判

二ーチェは,19世紀のヨーロッパに蔓延したニヒリズム(虚無主義)の根本原因を、キリスト教的価値観と道徳にあるとした。キリスト教は普遍的な人間愛を共通の価値理念として、それに従うよう個々に強いている。これが個人的利己主義を生むこととなった。

奴隷道徳

また、キリスト教の重要な教えである、神の愛や隣人愛を奴隸道徳として批判した。人間は本来、より強く、よリ豊かになろうとする意欲をもつ。しかし、神の愛は弱い者、貧しい者へと向けられ、そのなかで人間は向上心を失い、ますます堕落し、生きる意味を失ってしまった。結果として人々をニヒリズムにつながることとなる。

『力への意志』ニーチェ

キリスト教は,無私や愛の教えを前景におしだすことによって、個の利害よりも類の利害が価値高いと評価してきたのでは断じてない。キリスト教本来の歴史的影響、宿業的な影響は、逆に、まさしく利己主義を、個人的利己主義を、極端に(個人の不死という極端にまで)上昇せしめたことである。・・・・・・

この普遍的な人間愛が、実際には、すべての苦悩する者、出来そこないの者、退化した者どもの優遇なのである。じじつそれは、人間を犠牲にする力を、責任を、高い義務を、低下せしめ弱化せしめてしまった。キリスト教的価値尺度の範型にしたがえば、いまなお残っているのはおのれ自身を犠牲にすることのみである。しかし、キリスト教が容認し勧告すらする人身御供のこの残りも、全体の育成という見地からすれば、まったく無意味なのである。類の繁栄にとっては、はたして個々人の誰かがおのれ自身を犠牲にするかどうかは、どうでもよいことであるからである。

ニヒリズム

ニヒリズム(虚無主義)とは生きる価値を喪失してしまった状態をいう。従来のヨーロッパの価値観はキリスト教・共同体によって与えられた信仰により生活規範や生きる目標があった。
しかし、近代のキリスト教が没落した結果、無信仰が蔓延し、共同体的規範が崩壊する。この絶対価値の消滅を、ニーチェの「神は死んだ」という言葉で象徴される。このことからニーチェにとってのニヒリズムとは、ギリシア主義とキリスト教を最高の価値として信じるヨーロッパ人の精神的文化的状況である。そして、ニーチェによるキリスト教的道徳価値の否定の後、それに代わる価値を生み出しえないでいる状況を示している。そしてニーチェにとって価値判断の基準は、ディオニュソス的生を可能とするか、そして現実に人間の生を豊かにするかという観点からなされた。それは、生きんとする意志であり、ディオニュソス的創造性を自らのものとして生きる意志であるとした。

意味や目標がないが、しかし無のうちへの終局をもたずに不可避的に回帰しつつあるところの、あるがままの存在、すなわち「永遠回帰」。これがニヒリズムの極限的形式である。すなわち、無が永遠に!

「人間のところへ行かず、森にとどまるがいい!行くなら、動物のところへ行け!なんで、わしのようになろうとしないのか?——熊たちのなかでは熊に、鳥たちのなかでは、鳥になろうとしないのか?」
「じや,聖者のあなたは、森で何をしてるのですか?」と,ツァラトゥストラはたずねた。
森の聖者が答えた。「歌をつくって、歌っておる。歌をつくるとき、わしは笑い、泣き、うなる。そうやって神を讚えるのじや。
歌い、泣き、笑い、うなって、わしは神を讃える。わしの神をな。
さて、あんたは何をプレゼントしてくれるのかね?」
ツァラトウストラはその言葉を問いてから、森の聖者にお辞儀して言った。「与えるようなものなんて、もってませんよ!さあ、もう行かせてほしい!あなたたちから何も取ったりしないように」。
——こうして ふたりは別れた。ふたりの子どもが笑うような調子で笑いながら、その老人とこの男は別れた。
ツァラトゥストラはひとりになったとき、自分の心に向かってこう言った。
「こんなことがあるのだろうか!あの老人の聖者は森のなかに閉じこもっていて、まだ何も間いてないのだ!神が死んだってことを」

ツァラトゥストラ

ツァラトウストラとは,古代ペルシャの宗教家ゾロアスターを指す。ゾロアスター教はキリスト教よリ古い歴史をもち、ユダヤ教にも影響を及ぼした。

力への意志

ニーチェが、ショーペンハウアーの生への盲目的意志とダーウィンの生存競争説から形成した概念すべて生きようとする意志は、より強大になろうと戦い、競争に打ち勝ち、意志を本質とする。したがって、生きようとする意志、権力を求め目指し、力への意志である。世界の根本原理は「力への意志」、ディオニュソス的創造性を自らのものとして生きる意志であるといえる。この意志が誠実性の徳により、価値の否定を決定付けるのである。「力への意志」はディオニュソス性の自己実現のため、まず現実の悪と偽とを否定する破壊の力として働く。次に真に豊かで創造的な価値を創造する力として実行される。真理は現実において実現されるべきものである。ディオニュソス的生の真実は、自らの道徳的価値の頂点における神を否定したとき、同時にあらゆる彼岸主義を否定したのである。人生は無意味であり孤独であるが、それに見を逸らさず耐え、無意味な人生を無意味に生きることが求められる。ハイデガーは「現在の水準を確保するためには常に上昇していなければならない。現状維持は早くも堕落の集まりである。」とした。

永遠回帰と運命愛

永遠回帰とは、すべての存在と事象が同じものとして完全に何度も永遠にくリ返されることである。すなわち、すべての出来事はかって永遠の過去におこったことであって、永遠の未来にわたっても同様に無限にくリ返され、ニーチェはこれを自覚したとき、ニヒリズムの極限形式であることを悟った。同じことが永遠に幾度とくり返されるとしたら、この人生に意味や価値はあるのか。そして、あえてまたくり返す勇気があるか。これが人生である、その上でもう一度、と運命を愛すること(運命愛)こそが重要である。永遠回帰に耐え、運命を愛さなければならない。

人間精神の過程

① 重い荷物を背負って歩くらくだの精神
>多くの知識を吸収し、みずからの世界観の根底となる基礎的学習の段階
② 一人雄々しく歩く獅子
>自らの独自な世界観のもとに生きる自由と独立の精神段階
③ 小児の段階
>まったく肯定としての段階。人間精神の最高の境地

ニーチェは獅子の精神の多くのものを否定したが、この否定が新たな価値の創造につながるものではない。価値の創造は価値喪失のニヒリズムを単に否定するところには生まれない。現実のニヒリズム状況をどこまでも生き通しつつ、新たな価値をその生の中で求められていく。ニーチェはこのような生を没落として捉える。没落とは、ニヒリズムに陥る生であり、ニヒリズムをどこまでも避けることなく生き続ける生の事実である。生きることが真実な価値の模索であり、真実な価値の自己実現であるような生を自らのものとしてゆくことである。

超人

「神は死んだ」今、既存の価値や権威を打破し、新しい価値を創造してニヒリズムを克服しなければならない。超人とは、真実なる価値を自ら求め創った理想であり、生の目標である。二ーチェはキリスト教的神に代わるものとして、人類の理想的人間の姿を超人とした。
ラクダの忍耐心、竜(権威)を噛み砕く獅子の強さ、小児の純粋さと創造性を兼ね備えるものであるとした。超人はまた「永动回帰」や「運命愛」とも結びつき、苦悩に満ち、同じことがくリ返される無意味な人生ではあるが、その無意味な人生を無意味な人生として肯定し、それならばもう一度と叫び、人生のあるがままの姿を愛して悲惨さを乗リ越えていく人間もまた超人の姿のいち面である。

ディオニュソス的創造性

ディオニュソス的創造性とは、実存の一人ひとりが各自目指す真実な人間像に自らの意志によって立ち向かう自己創造のあり方である。この誠実は、ニーチェが「生への畏敬」として捉えるものであり、生そのものに対する畏敬の感情が、ニーチェに生きることの意味をディオニュソス的創造性として示したものである。

『ツァラトゥストラかく語りき』ニーチェ

かっては神を冒涜することが最大の冒涜だった。しかし、神は死んだ。そして神とともに冒涜者たちも死んだのだ。こんにちでは、大地を冒涜することが、もっとも甚だしい冒涜である。

ツァラトゥストラは群衆にむかってこう言った。
超人というものを教えてあげよう。人間は、克服されるべき存在なのだ。 君たちは人間を克服するために何をしてきた?これまでの存在はみんな、自分を超える何かを創造した。君たちは、この大きな満ち潮に逆らう引き潮であろうとするのか?人問を克服するよりも動物に戻ろうとするのか?
人間にとって猿とは何か?物笑いの種だ。あるいは痛いほど恥ずかしいものだ。超人にとって人間もその猿と変わりがない。物笑いの種だ。あるいは痛いほど恥ずかしいものだ。
君たちは、虫から人間への道を歩いてきた。おまけに君たちのなかにある多くのことは、まだ虫のままだ。昔、君たちは猿だった。いまでもまだ人間は、どこかの猿より、もっと猿だ。
君たちのなかで一番賢い者も,植物と幽霊が裂けて混じり合ったものにすぎない。だからといって俺は君たちに、幽霊や植物になれ、と命令するだろうか?
いや,君たちに超人のことを教えてやろう!超人とは,この地上の意味のことだ。君たちの意志は、つぎのように言うべきだ。超人よ、この地上であれ、と!
兄弟よ、俺は心からお願いする。この地上に忠実であれ!地上を越えた希望を説くやつらの言うことなんか、信じるな!やつらは毒を盛る。自分が毒を盛っているとわかっていても、いなくても。

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