デタント|国際関係における緊張緩和

デタント (緊張緩和)

デタント(フランス語: détente)は、国際関係における緊張緩和を指す用語である。デタントはフランス語で「弛める」(détendre) という行為と、その結果生まれた「弛んだ」(détente) 状態を意味する。1962年10月のキューバ危機を契機に、フランスのシャルル・ド・ゴール大統領が東西関係において達成されるべき発展過程を、デタント、アンタント (相互理解)、コーペラシオン (協力) と表現して以来、広く用いられるようになった。この用語は、紛争解決における非軍事的形態の使用や、相反する目標と利害の平和的調整を特徴とする東西関係の一定の状態を表すのに使われる。デタントは、1970年代における米ソ関係の重要な局面であり、緊張緩和と平和的共存のための一連の政策と取り組みを意味する。この時期のデタント政策は、冷戦の激しい対立を一時的に緩和し、国際的な安定をもたらしたが、その持続性には限界があった。それでも、デタントの成果は、冷戦終結への道筋を示し、国際関係の歴史において重要な役割を果たした。

背景と起源

デタントの背景には、冷戦期の激しい対立とその緩和の必要性がある。第二次世界大戦後、米ソ関係は1955年のジュネーブ四大国首脳会談を除いて緊張が続いた。1950年代後半から1960年代初頭にかけてのミサイル競争、1960年のU-2型機撃墜事件、1962年のキューバ危機などが象徴的な事件である。しかし、このころからフランスと中国が米ソ二極支配に反発し、アメリカはベトナム戦争の泥沼化、ソ連は中ソ対立に直面したため、両国は緊張緩和に向けた動きを強めた。

ド・ゴールのビジョン

フランスのド・ゴール大統領は、東西関係の発展過程をデタント、アンタント、コーペラシオンの三段階で表現し、このビジョンがデタントの概念の基礎となった。彼の目標は、東西陣営が対話と協力を通じて平和的共存を目指すことであった。

1970年代のデタント政策

1970年代初頭、アメリカとソビエト連邦の関係は急速に改善し、緊張緩和が進んだ。この時期の主要な出来事には、1963年の部分的核実験停止条約、1968年の核不拡散条約、1970年の米ソ戦略兵器削減交渉(SALT)の開始が含まれる。

ニクソンとキッシンジャーの戦略

アメリカのリチャード・ニクソン大統領と国家安全保障問題担当補佐官ヘンリー・キッシンジャーは、ソビエト連邦とのデタント政策を推進した。彼らの戦略は、米中ソ間の政治的・軍事的安定化と米欧日間の経済的利害関係の調整を通じて、多極化時代の秩序を再構築することにあった。この戦略は、戦略兵器制限交渉(SALT I)の締結や、1973年の核戦争防止協定に結実した。

ヨーロッパでのデタント

米ソの緊張緩和はヨーロッパにも波及し、1970年にソ連と西ドイツ間の武力不行使条約、ポーランドと西ドイツ間の国交正常化条約が成立した。1972年には東西ドイツ間で国家関係基本条約が調印され、1973年には両国が国連に同時加盟するなど、東西ヨーロッパの和解が進展した。

ヘルシンキ宣言とその影響

1975年、全欧安全保障協力会議(CSCE)がヘルシンキで開催され、最終文書が採択された。これは、東西関係の緊張緩和を象徴する出来事であり、人権や経済協力の分野での合意が図られた。この時期、ヨーロッパにおける軍備管理と政治的・経済的協力の増大が進み、デタントは一時的に最高潮に達した。

ヘルシンキ宣言の内容

ヘルシンキ宣言は、ヨーロッパの安全保障と協力を目指すものであり、軍事的な緊張緩和、経済協力、人権の尊重などが含まれていた。この宣言は、東西両陣営の平和的共存を促進するための重要な枠組みとなった。

デタントの後退と新冷戦

1970年代後半から1980年代初頭にかけて、米ソ関係は再び悪化し、新冷戦時代が到来した。ソビエト連邦のアンゴラ介入やアフガニスタン侵攻により、アメリカは対ソ強硬路線を取るようになり、デタントは後退した。

新冷戦の要因

デタントが後退した要因には、米ソ間のデタント観の相違や、ソビエト連邦の軍事的拡張が挙げられる。アメリカ内部でもデタントに対する批判が強まり、冷戦の再燃が避けられなかった。

デタントの崩壊

ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻(1979年)は、デタントの崩壊を決定的なものにした。これに対するアメリカの過剰反応と新冷戦の出現により、デタントは完全に終焉を迎えた。

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