ガリレオ裁判
ガリレオ・ガリレイは、当時のキリスト教的世界観とは大きく異るコペルニクスの地動説を支持したために、2度にわたって宗教裁判にかけられた。1633年に『天文対話』が地動説を弁護し、聖書の教えにそむくとして告訴され、異端審問所で2度目の裁判が行われた。同じく地動説を支持したブルーノが火刑にあったこともあり、ガリレイは、自説を撤回したが、終身禁固の判決を受け、『天文対話』は禁書になった。退廷するとき、「それでも地球は動く」とつぶやいたと伝えられているが、その真偽ははっきりしない。その後は、郊外の別荘に隠退して、研究をまとめた『新科学対話』を書いた。ガリレオ裁判は、異端を禁圧するために設けられた裁判所でローマ=カトリックにおいては13〜18世紀に行われた。
第一回目のガリレオ裁判
1609年、ガリレオ・ガリレイは『星界の報告』というタイトルの書で月のクレーター、山谷の発見や月が楕円であること、木星の4つの衛星についての報告を行った。このことはアリストテレスの説明とまったく反しており、聖書などの記述と異なっていた。たとえばヨシュアは、「日よ、ギベオンの上にとどまれ、月よ、アヤロンの谷にやすらえ」と命じ、その結果「民がその的を打ち破るまで、日はとどまり月は動かなかった。」と記されているが、これは不動の地球のまわりを太陽が回っていることを解釈することができる。この後、数年に渡り緊張関係が続いたが、異端審問所はガリレオに対する訴訟を却下としている。なお、すぐその後、ベルラルミーノ枢機卿は地球の運動は仮説として受け入れられるべきとした。
第二回目のガリレオ裁判
再び研究に戻ったガリレオは『天文対話』の準備をする。しかし、ガリレオが提示した新しい天文学体系は、出版の許可を得たにも関わらず、異端審問所は『天文対話』の発売を禁止した。第一回ガリレオ裁判にまた注目が集まり、危機的な状況に陥ることとなる。ガリレオは「行き過ぎた」こととそれを変更することを書面で認めることとなる。その結果、無期限の判決によって、別荘で軟禁状態に陥り、そこで生涯を迎えることとなる。なお、軟禁状態でも研究は許され、物質の構造と運動法則を検討した『新科学対話』を書いた。