カッシート
カッシートは、メソポタミア地域のバビロニアを長期間にわたり支配した民族である。起源は現在のイラン西部に位置するザグロス山脈周辺とされるが、詳細な出自については諸説ある。バビロン第3王朝とも呼ばれる時代に大きな権力を確立し、紀元前16世紀頃から約400年にわたりバビロニアの政治や経済に深い影響を与えた。このカッシート政権下では、バビロンの王宮や宗教施設の再建が進められ、同時に多くの馬が北方から供給されるなど、地域の軍事・交通の発展にも寄与したとされる。エジプト・ミタンニ・ヒッタイトと抗争した。前12世紀エラム人に滅ぼされた。
起源と名称
カッシートの名称は、古代メソポタミアの楔形文字資料において「Kaššu」や「Kaššū」と表記される場合がある。ザグロス山脈地域を拠点として独特の部族連合を形成し、当初は遊牧的あるいは半定住的な生活を送っていたと推測される。彼らの言語はシュメール語やアッカド語とは系統が異なるとされ、メソポタミアの在来民とは異質な文化を保持していたことが窺える。
バビロニア統治
古バビロニア王朝が衰退していく中で、カッシートはバビロンに進出し、バビロン第3王朝を樹立した。紀元前16世紀初頭にバビロンを押さえた後は、ユーフラテス川流域の豊かな農業地帯を確保し、交易路を支配することで経済的な安定を築いたと考えられている。彼らの政権は紀元前12世紀頃まで継続し、バビロニア全域に統治機構を行き渡らせることに成功した。
政治と社会構造
カッシートの王たちは中央集権的な体制を整え、地方行政官の派遣や神殿経営を通じて、国内の安定を図った。バビロンを拠点とすることで、在来の住民との結びつきを深め、地域の多民族共存社会を運営する統治能力を高めたとされる。これらの手法は後世の新アッシリアや新バビロニアにも影響を与え、古代オリエントにおける統治技術の一端を示す例となっている。
文化と宗教
カッシート朝の時代には、シュメール・アッカド系の信仰をベースにしながら独自の神々も崇拝された形跡が残る。例えば、王名の中に見られる「Šuqamuna」や「Šumaliya」という神格はカッシート独自の神であるとされる。バビロンの守護神マルドゥクの信仰も継承され、在来の宗教施設の再建や奉納品の寄進などが行われたと推測される。
馬の利用
- 北方から馬を導入した可能性
- 軍事や長距離移動の手段としての活用
- 将来の騎馬文化の端緒になったとの見解
衰退の要因
カッシートの勢力は、周辺諸国との政治的・軍事的な対立や内政の混乱によって徐々に弱体化した。特にエラムの侵攻など外圧も激化し、バビロニア地方での支配が揺らぐことになった。さらに、鉄器の普及や周辺地域の交易ルート変更といった経済・技術面での変化も彼らの衰退に拍車をかけたとされる。
言語の特徴
彼らの言語はアッカド語と同時期に使われていたが、系統的には明確に区別される。文献資料は少なく、主に王名や神名、地名などの固有名詞から推測される程度である。カッシート語がメソポタミアの公用語となることはなかったとされ、記録の大半はアッカド語やシュメール語の楔形文字文書で残されている。
遺跡と考古学的証拠
バビロニア各地の遺跡からはカッシート朝時代の遺物や建築物の痕跡が見つかっている。首都バビロンをはじめ、ニップルやウルクなど主要都市における神殿や行政施設跡には、カッシート王による奉納品の記録が確認される。考古学的証拠からは、石碑や境界標などに王の名が刻まれているほか、馬の骨格や馬具の痕跡が発見され、彼らの社会における馬の重要性を示唆している。
研究の現状
現在でもメソポタミア考古学の進展に伴い、新たな文書資料や遺構が明らかになることで、カッシートの正確な歴史像が徐々に解明されつつある。彼らの統治システムや軍事組織、民族構成などは不明点も多いが、学際的な分析が進むにつれて、古代オリエント史における意義を再評価する動きが高まっている。