インドシナ戦争
インドシナ戦争とは、1946年から7年間、旧フランス領インドシナの独立をめぐって、中華人民共和国やソ連が支援したベトナム民主共和国とフランスとの間で行われた戦争である。アメリカは、フランスが立てたバオダイを軍事支援し、冷戦の構図ができあがった。1954年、北緯17度線を暫定境界線とするジュネーブ協定が成立し、フランスは撤退した。
フランス植民地時代
17世紀ごろ、イエズス会がキリスト教を布教し始めた。当初、ベトナムはッ布教に寛容な姿勢を示していたが、キリスト教の宣教師が役人の反乱を支援していたことから、厳しい対応をとるようになった。フランスは領土拡大政策の一環としてベトナムに進軍。1862年以来、フランスの軍事行動が続き、清軍を追い出し、カンボジア、ラオスとともに、フランスの植民地となった。
日本の進軍
1940年6月、第二次世界大戦でフランスはドイツに降伏、これをみてドイツと軍事同盟を結んでいた日本は、1940年9月、ベトナムへ進軍して駐在した。日中戦争を展開していた当時、ベトナムへ進軍することで、日本は、ベトナム経由でなされていたアメリカの中華民国の援助を妨害しようとしていた。
日本による飢饉
日本軍がベトナムに進駐すると、軍事用の麻袋を作るため、多くの農家に稲作をやめさせ、麻の栽培に転換させた。また、米が不足していた日本はベトナムの農民から米を強制的に買い上げる政策を行う。1944年、日照りが続き、雨が降らず、米の不作が訪れたが、わずかな米をすべて日本軍が買い上げたことから、大飢饉が発生した。ベトナム政府は、この飢饉によって200万人が死亡したと発表している。
ベトナム独立同盟会
1941年5月、日本の支配下で、ホー・チ・ミンによる、ベトナムの独立を求めるベトナム独立同盟会(ベトミン)が結成された。ベトミンは日本やフランスに対して独立運動を展開する。
ベトナム民主共和国
1945年9月2日、第二次世界大戦で日本が敗北すると、ベトミンは「ベトナム民主共和国」の独立を宣言した。臨時政府の主席であったホー・チ・ミンは、アメリカの「独立宣言」にならい、「独立宣言」の内容を盛り込んだ宣言であった。
地球上のすべての民族は生まれながらに平等であり、生存する権利において平等なものとして出生し、生存する。(ホー・チ・ミン)
独立交渉
1945年9月下旬、フランス政府は、空挺部隊を送り込んでメコン・デルタに兵をすすめ、圧倒的な軍事力で占領地を広げた。ベトナム政府は協定を結んで戦争を回避の交渉を試みた。ベトナム政府はベトナム南部や中部を切り離し、フランス軍がベトナム軍の指揮権を譲渡するなどの妥協したが、交渉は決裂し、フランスは11月にはハイフォンを無差別攻撃するなど戦闘状態に入る。
インドシナ戦争
フランスからの攻撃が始まると、ホーチーミンはハノイを脱出して北部の山岳地帯に根拠地を作り、そこで救国宣言を発表して、1946年12月、インドシナ戦争が始まった。ホー・チ・ミンは、アメリカによる独立の援助を申し出るが、これを無視した。
ベトミンとフランス
フランスからの独立を説いたベトミンはベトナム国民の幅広い支持を背景に、当初こそフランス軍に劣勢でゲリラ戦を展開していたが、中国の軍事援助を得て北部・中部の山岳地帯、南部のメコン・デルタなどはベトナムが確保した。ベトミンのゲリラ戦に対して、フランス軍は村を焼きはらい、ハノイ、サイゴンなどの主要都市を抑えたが、北部・中部の山岳地帯、南部のメコン・デルタなどはベトナムが確保した。
ベトナム国
フランスは統一と独立を要求するホーチーミンとは異なる、バオダイの勢力を香港からつれ、ベトナム国を建設する。中華人民共和国やソ連がそれを承認すると、アメリカも続いてベトナム国を承認して軍事援助を行う。
冷戦
インドシナ共産党が指導し、ソ連と中国が支援したベトミンとアメリカやフランスが支援するベトナム国の、冷戦の構図ができあがる。
もしインドシナ半島が倒れれば、その他の東南アジア諸国もまるでドミノが倒れるように共産化するであろう。そして、その損失が自由主義社会に与えるダメージは、はかり知れないものになる(1954年 アイゼンハワー大統領)
ディエン・ビエン・フーの戦い
次第に劣勢になっていくフランス軍は、1953年11月、ハノイ西のラオス国境に近いディエン・ビエン・フーという場所に、大規模な基地を建設した。ラオス経由で中国によるベトミンへの軍事援助の断絶を図る目的があった。巨大な基地は滑走路を備え、フランス兵1万6000人が待機した。これに対して、ベトミン軍も、4万人の部隊で、トンネルを掘りながら基地を包囲し、丘の上に大砲を運び、周囲からの砲撃をくり返すことで、滑走路を破壊、補給の航空機が到着できないようにした。ディエン・ビエン・フーを舞台に戦闘は2ヵ月つづいたが、1954年5月、フランス軍は降伏し、1万人ものフランス兵士が捕虜になった。ディエン・ビエン・フーの戦いをきっかけにベトナムは独立を決定的にする。
ジュネーブ協定
1954年7月、スイスのジュネーブで開かれた和平会談でジュネーブ協定が結ばれ、インドシナ戦争は休戦となった。北緯17度線を境に軍事境界線をひいた。また軍事援助の禁止や国際監視委員会の設置、普通選挙による南北統一が決まった。
ベトナム民主共和国
ベトナム北部には、ベトナム民主共和国が確立し、ホー・チ・ミン首相のもと、社会主義国が誕生した。
ベトナム共和国
ベトナム南部には、1955年10月、ベトナム共和国が成立した。総選挙の結果、アメリカの息がかかったゴ・ジン・ジェム大統領の政権が成立した。
南北ベトナムの固定化
ジュネーブ協定では、成立の2年後に、南北ベトナム全体で統一選挙を実施して、統一国家を作ることになっていたが、共産党が支配するベトナム民主共和国の不当占拠による圧勝を恐れたアメリカとベトナム共和国(南ベトナム)は、これを拒絶した。
アメリカの援助
第二次世界大戦後、フランスにはベトナムをコントロールする力は残っておらず、ジュネーブ協定が結ばれると撤退していった。しかし、ソ連と敵対関係にあったアメリカがフランスの代わりにベトナムに経済的・軍事的援助を行うようになる。
ベトナム戦争
インドシナ戦争には北緯17度線を境界線として南北で冷戦構図ができあがった。これがのちにベトナム戦争に発展するが、アメリカは南ベトナムの住民の支持を得られないまま戦争に突入し、大きな損害を受け、敗北に追い込まれることになる。その後、北ベトナムのホーチーミンの下でベトナムは統一を果たした。