アパルトヘイト apartheid
アパルトヘイト(apartheid)は、南アフリカ連邦および南アフリカ共和国で採用されていた、白人を優越させ、黒人を蔑視する人種主義に基づき、様々な立法措置によって人種間の隔離を図る人種隔離政策である。アパルトヘイトは、隔離を意味するアフリカーンス語である。南アフリカ共和国では、人口登録法、土地法、集団地域法などによって極端な黒人差別が行われた。1976年の若者が拷問・殺害されたことを発端にソウェト暴動がおこるが、これをきっかけに差別撤廃運動の機運が高まり、国際的な批難も大きくなってきた。 1989年、大統領に就任したデクラークの下で様々なアパルトヘイト関連法案が提出された。1994年、選挙法も改正され、黒人解放組織のアフリカ民族会議(ANC)が圧勝し、ネルソン・マンデラが初の黒人大統領に就任した。
アパルトヘイトの始まり
アパルトヘイトの用語が正式なものとなったのは、国家の基本政策として確立した1948年であったが、その前提となる人種隔離政策は、1910年、南アフリカ連邦の成立直後から立法府により国家としての人種隔離政策は始まっていた。
鉱山労働法
南アフリカ共和国が成立直後、1911年、最初の差別立法といわれる「鉱山労働法」を制定して鉱山での白人と黒人の賃金差別を合法化した。
原住民土地法
1913年、「原住民土地法」が成立。アフリカ人の指定居住地は全土の7.3%と定めアフリカ人の移動を制限した。また、同時に鉱山・工場・白人農場などでのアフリカ人の労働力を酷使することになる。
産業調整法
1926年、「産業調整法」が施行され、アフリカ人のストライキ権は制限し、低賃金の労働力としてより一層酷使されることとなる。
産業調整法
1927年には異人種間の性交渉を禁止する法律が施行された。
アパルトヘイトの成立
第二次世界大戦後、1948年6月の総選挙で。オランダ系白人(アフリカーナー)が結成した国民党(NP)が勝利し、「アパルトヘイト」という用語が正式に使われるとともに、50年代にかけてアパルトヘイトに関連する法律が次々と制定された。建国の当初から差別がひどかった南アフリカ社会は明確な人種隔離社会となった。
人口登録法
人口登録法は、すべての南アフリカ人を白人、カラード、インド人、アフリカ人という4つの「人種」に分類した。
雑婚禁止法・背徳法
雑婚禁止法と背徳法は人種間の結婚と性交渉を禁止し、集団地域法は都市地域を厳格に分割し、人種別の居住区を指定した。
雑婚禁止法・背徳法
隔離施設留保法は、公園、海水浴場、公衆トイレ、教会、レストラン、ホテル、劇場、映画館、エレベーター、バス、列車、学校、役所など、あらゆる公的な場所に「ヨーロッパ人専用」と「非ヨーロッパ人専用」に分離し、それぞれ掲示がかけられた。
共産主義弾圧法、破壊活動防止法
共産主義弾圧法、破壊活動防止法は、黒人の反体制活動を取り締まることになる。
バンツーホームランド市民権法
1959年、バンツー自治促進法が成立し、民族(部族)単位ごとにアフリカ人に自治を与えるという分離政策が実施された。これによってアフリカ人地域は10に分割され、外交・防衛・治安などの権限を除いて各地域に自治を付与するという「バンツーホームランド市民権法」が成立した。70年代後半になると、自治国家として4つの「バンツーホームランド」がつくられたが、形骸化された自治権となり、国際社会で国家として認められたものはなかった。
アパルトヘイトへの抵抗運動
南アフリカの白人政権によるアパルトヘイトが深刻となるにつれ、黒人運動組織のアフリカ民族会議(ANC)からネルソン・マンデラら若い指導者を中心にアフリカ人としての権利と政治的独立を目指した不服従運動が送る。
自由の憲章
1955年6月、初の全国人民会議がヨハネスバーグ郊外で開催された。全国人民会議では、自由・平等で社会を目指す「自由の憲章」が採択された。しかし、1956年、その指導者のマンデラら156人が捕らえられるなど開放運動に弾圧が強まる。
シャープビルの虐殺
不服従運動は、穏健な内容なものであったため、アフリカ人による政府の樹立を主張するパン=アフリカニスト会議(PAC)がANCから分離する形で現れた。1960年3月にはPACが呼びかけた集会で警察の一斉射撃が行われ、69人が殺されるという「シャープビルの虐殺」事件が起こった。これには国連も南アフリカ政府を批判することとなり、国際社会の批判は強くなっていく。
南アフリカ共和国の建立
1960年、アフリカの年に多くのアフリカ諸国が次々と独立する中で、南アフリカの白人政府に対する国際的批判が高まった。こうした時制の中で南アフリカ政府は1961年、イギリス連邦から分離して「南アフリカ共和国」と国号を変更し独立の形をとる。国際的孤立を引き換えに、アパルトヘイトを維持強化することとなった。
ネルソン・マンデラの収監
1961年6月、不服従運動を展開していたネルソン・マンデラは武装闘争に方向転換し、政府機関の襲撃などを行いながらエチオピアに赴き、アフリカ諸国の民族解放運動との連携を強めた。政府はマンデラをストライキ煽動、パス不携帯の罪で逮捕し、懲役5年の刑でロベン島に収監した。
ソウェトの闘い
ヨハネスバーグではアフリカ人居住地域のアフリカ人が強制的に退去させられ、近郊に造られたソウェトに移住させられた。1976年、政府が中等教育の授業用言語としてアフリカーンス語を大幅に増やそうとしたことに対し、支配者の言語による教育に反対する中高校生が抗議行動を起こした。このソウェト暴動でも軍隊と警察の無差別発砲で多くの学生を含め、約600人が命を落とした。
スティーヴ・ビコの惨殺
1977年、運動の指導者の大学生スティーヴ・ビコが拷問を受けて惨殺されると、抗議の声は世界的に広がり、多くの国が南アフリカとの国交断絶や経済制裁に踏み切り、南アフリカはますます孤立した。
カラードやインド人への参政権
1984年、新憲法が制定され、カラードやインド人に選挙権が与えられた。しかし、アフリカ人には認められなかった。
マンデラとの交渉
1985年、経済界もANCのマンデラらを解放することが事態解決と判断し、ボタ大統領はついにマンデラを大統領府に招いて会談し交渉が始まる。
アパルトヘイトの廃止
1989年、病気で倒れたボタの後任として大統領に就任したデクラークは、1990年2月11日、マンデラを無条件で釈放し、次々とアパルトヘイト廃止に着手した。1991年2月1日にはアパルトヘイトの基幹となっていた人口登録法、集団地域法、現住民土地法という三つの法律の廃止を宣言し、アパルトヘイト関連法はすべて廃止された。さらにANCやPACなどの合法化、政治犯の釈放などとともに暴力の即時停止を約束した。
マンデラ大統領の誕生
1991年12月、19の政党が参加して新憲法制定の話し合いを開始し、長い交渉と議論の末、1994年4月26日に南アフリカ史上初めて全人種が参加する制憲議会選挙が行われた。その結果、ANCが圧倒的勝利を収め、マンデラが大統領に就任した。この間、マンデラとデクラーク大統領は1993年にノーベル平和賞を受賞し、アパルトヘイト撤廃に尽くした業績が国際的に評価された。