アッシリア|オリエントを統一した残虐な軍事国家

アッシリア

アッシリアは、前2千年紀初めー前612セム語系の民族でティグリス川中流を中心に北メソポタミアに建国した強力な帝国である。都としてはアッシュールやニネヴェが著名であり、ティグリス川流域の交通要衝を抑えることで経済力と軍事力を拡大した。北メソポタミアは、現在のイラク北部で海抜500m台の天水農業地帯で、下流域のように大河の運んでくる沃土に頼る穀物栽培は不可能であった。前15世紀にはミタンニに服属したが、やがて独立を回復して強力な軍事国家を形成する。前7世紀前半、エジプトを含む全オリエントの主要部分を初めて統一し、専制君主の王が全国を州に分け、総督を派遣して支配させた。軍事的には、戦車や騎兵の運用にも長け、当時としては画期的な戦術を取り入れたことが、広大な領土支配を可能としたとされる。征服した周辺地域の国家や都市に対しては行政システムを整備し、大規模な公共事業を実施するなど組織立った支配体制を敷いたが、強圧的な政策も採用しつつ、文化や知識を取り入れる柔軟さも持ち、古代オリエント世界に大きな影響を与えた。

成立と地理的条件

アッシリアの発祥地は、メソポタミアの中でも北方に位置するアッシュールを中心とした地域である。肥沃な土壌と交易ルートが交差する立地のため、当初は商業都市を軸に発展した。南方にはバビロニアが、北方にはアナトリア高原が広がり、東西方向にもイラン高原やレヴァント地域と繋がる地理的利点を有していた。こうした条件は経済活動の活発化を促進し、王権が拡大する基盤となった。

アッシュル

アッシュルは、ティグリス川中流域の都市である。アッシリアの最初の都で、同名の市の守護神アッシュル神が天地創造の神となった。アッシリア帝国の成立によって国家神となる。アッシリアの名はこれらに由来する。

ニネヴェ

ニネヴェはティグリス川中流左岸の都市である。前8世紀末よりアッシリアの首都となった。アッシュル=バニパル王(在位前668~前627)の時代に、大図書館が建設されたことで知られる。

アッシリアの略歴

アッシリアは、広大な地域を征服し、さまざまな民族を抱えながらも、強力な支配を保持している世界帝国であった。征服した植民地を属州として支配した。ただし、強制移住や重税など苛酷な支配を行ったため、服属諸民族の反抗を受け、前612年、新バビロニア(カルデア)とメディアの攻撃で滅びた。

古拡張期と軍事力

アッシリアが強国として台頭するのは、紀元前9世紀頃からのいわゆる「新アッシリア時代」である。強力な軍事組織が整えられ、鉄製の武具や戦車、騎兵隊が積極的に運用された。遠征や征服活動では包囲戦術や工兵技術も活かされ、領土は西アジア各地に及んだ。戦勝後には被征服地から住民を強制移住させ、諸民族を混在させる政策が取られることが多かったとされる。この結果、強固な反抗勢力が生まれにくくなり、大規模な反乱を抑止する効果を持った。

オリエント統一

前7世紀の前半、エジプトも征服したアッシリアはオリエントの主要部分を統一した。アッシュール=バニパル王は各地に総督をおいて統治した。また駅伝制を設けて中央集権の強化をはかった。反乱の防止と領内労働力の適正配置を狙い被征服民に強制集団移住政策を行ったが、被征服民に過酷な負担を背負わせることになり、各地で反乱が起きた。

アッシリアの崩壊

紀元前7世紀後半になると、外敵からの侵攻や被征服民への支配の過酷さを極めたため、各地で反乱が相次ぎ、帝国は急速に衰退した。前612年以降、オリエントにはリディア・メディア王国・新バビロニア(カルデア)・エジプトが分立した。前7世紀の中ごろにエジプト(第26王朝)が独立、次いでイラン高原にインド=ヨーロッパ系のメディア王国が、また小アジアに同系のリディア王国が成立した。さらに、メソポタミア南部に移動していたアラム人の一派と思われるカルデア人は、前625年にバビロンを都として新バビロニア王国(カルデア王国)を樹立する。バビロニア王国はメディアと同盟してアッシリアを攻め、前612年にニネヴェを陥れて、帝国の瓦解は圧倒的であった。アッシリアは、古代メソポタミアで一時代を築きながらも、その覇権を終焉させた。滅亡後も同地域ではバビロニアやペルシアなどの新勢力が興隆し、多様な文明が交錯していくことになる。

軍事国家

アッシリア人は北メソポタミアに定住したが、農地に向かなかったため、内陸中継貿易に活路を求めるようになる。前15世紀に一時ミタンニに服属したものの、独立を回復し、前12世紀に東地中海全域を襲った民族大移動で、旧勢力が衰亡したあとをうけて強大な軍事国家となる。前8世紀後半になると征服活動に拍車がかかり、バビロニアからシリアへての地域を支配下におさめた。

アッシリア軍

アッシリア軍は陸軍で構成される。当時は最新鋭である鉄製武器、2頭立ての戦車、弓で武装した歩兵・騎兵をもった。それらに加えて、ローマ軍のように、土木技術を身につけた工兵隊で編成された。艦隊の建造にはフェニキア人、築城や攻城にはシリアの工人が担った。アッシリア軍は多くの都市を徹底的に破壊し、抵抗した都市に対しては死骸を積み重ね略奪などが行われた。

行政制度と公共事業

征服地域を効率的に統治するために、総督を派遣して地方を管理させる行政制度が確立された。都市には防壁や神殿、宮殿などの公共建築物が建設され、インフラ整備も積極的に行われた。特に首都ニネヴェなど主要都市には運河や水路網が張り巡らされ、都市生活の利便性が高められた。さらにアッシリア王たちは各地から職人や学者を集め、多様な技術や文化を吸収する方針を示した。これにより建築・工芸・書記術などが発展し、オリエント世界における文明の一翼を担うことになった。

王の施策の一例

  • 総督を任命し、地方ごとに細分化した統治制度を確立
  • 運河や道路網を建設し、兵站や物資流通を効率化
  • 各地域から職人や学者を集め、宮廷文化を洗練

アッシュールバニパルの図書館

新アッシリア時代の王として知られるアッシュールバニパルは、首都ニネヴェに大規模な図書館を設立したことで有名である。膨大な粘土板文書にはシュメール語やアッカド語、バビロニアの神話や天文学、法律文書などが記録され、後世の学術研究に貴重な資料を提供した。強大な軍事力だけでなく学問や文化を重んじた姿勢は、アッシリア史を語る上で重要な一面といえる。

文化的影響

強力な軍事支配を敷いた一方で、アッシリアは美術や建築、文芸の分野でも大きな足跡を残した。石板やレリーフには戦闘や儀礼の場面が精緻に刻まれ、当時の人々の生活や思想がうかがえる。語学や天文学の研究も進められ、後のヘレニズム世界やイスラム世界の学問発展に間接的な影響を与えたと考えられている。こうした文化的遺産は多くが遺跡や博物館に収蔵され、古代オリエント研究の基礎資料として重要視されている。

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