『95か条の意見書(論題)』ルター
1517年にキリスト教会が贖宥状(免罪符)を販売したことに心を痛めたルターが、贖宥状(免罪符)を批判した95か条の論題を、ヴィッテンベルク城教会の扉に掲示し、宗教改革運動の発端になった。ルターは、魂の救済は神から与えられる恵みによるもので、自己の善行によらないとする立場から、贖宥状(免罪符)が信者に悔いあらためを軽視させ、救い主であるキリストへの信仰を妨げることを非難し、これを議論をするため、95か条の論題を公表した。ルターは、贖宥状(免罪符)を買うという行為によって罪が免除されるというのは誤りで、魂の救いは真の内面的な悔いあらためと、救い主キリストへの信仰によってのみ得られると説いた。たちまちドイツの各地に伝えられて大きな反響を呼ぶが、宗教改革運動の発端になった。
ヴィッテンベルク教会の扉への掲載
当時の慣行として、ヴィッテンベルク教会の扉を大学掲示板として日常的に利用されていた。しばしばルターの果敢な行動として取り上げられるが、ルターはその慣行に従っていたにすぎないといえる。また、事実としては、公開討論は行われなかった。このときルターは、このことが歴史を動かすような国際的な神学論争に発展するとは思いもよらなかったと考えられる。(なお、ルターが掲示したという事実は無かったという研究もある。)
ルターの予期しなかった波紋
ルターは、所定の手続きをとるため、『95か条の意見書(論題)』 を、当時の上司であったマインツ大司教アルブレヒトに送りつけたが、当然、アルブレヒトは不愉快に感じた。また、『95か条の意見書(論題)』をみた学生が興奮し、ドイツ語に訳した上で印刷業者のもとにおくった。これが誰もが予期しないほどの大きな評判を呼び、多くの言語に翻訳され、ついにはヨーロッパ全体で出版された。こうしてルター自身予期もせず、国際的論争の真ん中に立つ結果となった。