『デカメロン』 ボッカッチョ

『デカメロン』 ボッカッチョ

『デカメロン』 ルネサンス期のボッカッチョの代表的な小説。デカメロンとは、十日という意味で、『十日物語』と訳される。ペストの流行を避けてフィレンツェ郊外の別荘にこもった若い男女が、倦怠と退屈を慰めるために、毎日全員が1つの話を10日間行い、100の物語からなっている。イタリア語の口語体で書かれ、近代文学への道を切り開いた。あらゆる階級・ 職業の人が登場し、自由奔放な恋の話、男女のだましあい、偽善的な宗教家の話など、 ルネサンス的な人間性の解放の精神にあふれている。また、「三つの指輪」の 話では、ユダヤ教・キリスト教イスラム教を等しくあつかう宗教的寛容さを見せている。『デカメロン』の話の多くが、生と性の世界であることとおおいに関係しており、そこは中世のキリスト教の教義が支配する厳格な禁欲主義や精神世界とは一線を隠す。

ペストと『デカメロン』

イタリアでペストが流行ったのは1348年ごろ、ボッカッチョが34歳の頃であり、皮肉なことにペストが興した地獄絵図が『デカメロン』が生まれるきっかけとなった。肌を黒くして死に至らしめるペストの進行と感染の速さは人々を絶望に陥れたことがわかる。

一三四八年のこと、フィレンツェの町に大疫病が発生した。天体の働きゆえか、それとも人間の不正を神が罰したもうたのか、疫病は数年前に東方で発生し、無数の人々を死に追いやっていった。とどまることなく拡大しところを移し、ついに不幸なることか、西方の国にまで侵入した。知識をもっても、予見をもっても、抗するに益はなかった。フィレンツェでは役人たちが汚染を浄め、患者の入来を禁じて、健康の保全を呼びかけたが、ムダだった。一三四八年3月とその七月のあいだに、フィレンツェ市内だけで10万人の生命が失われたと推定される。(『デカメロン』 ボッカッチョ

病気の初期段階でまず男女とも鼠径部と脇の下に一種の腫瘍を生じ、これがりんご大に膨れ上がるものもあれば鶏卵大のものもあって患者によって症状に多少の差こそあれ、一般にはこれがペストのこぶと呼び習わされた。…身体の二箇所から死のペストのこぶは、たちまち全身に広がって吹き出してきた。その後の症状については、黒や鉛色の斑点を生じ、腕やももや身体の他の部分にも、それらがさまざまにあらわれて、患者によっては大きく数の少ない場合もあれば、小さくて数の多い場所もあった。(『デカメロン』 ボッカッチョ

…なかば、死体の腐臭からの伝染をおそれ、なかば故人への憐れみから、遺体を家から外へはこびだしたものである。玄関前に安置したが、ぐるりと巡回してみるものならば、ことに朝方など、数え切れず同じ情景を目にしたであろう。玄関前には、棺台がもうけられる。….ひとつの棺台の上に、二つと三つと遺体がおかれるのも再三のこと父と子の両遺体というようなこともおこった。(『デカメロン』 ボッカッチョ

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