霍去病
霍去病は前漢の名将であり、漢の武帝の下で対匈奴戦を主導した騎兵指揮官である。若年で台頭し、外戚である衛青に師事して機動戦を体得、河西(甘粛一帯)を制圧して四郡(武威・張掖・酒泉・敦煌)を設置させ、シルクロードの玄関口を漢の勢力圏に組み込んだ。前121年の北方遠征では深く敵中に斬り込み、前119年の決戦では衛青軍と呼応して匈奴の主力を撃破した。短い生涯であったが、速戦・縦深突入・拠点遮断という戦法を確立し、以後の漢帝国の対外政策と軍制に決定的な影響を与えた。
出自と登用
霍去病は外戚勢力の一員として宮廷に出仕し、衛青の推挙で近衛騎兵を率いる機会を得た。武帝は北方の脅威を除去して国家の安全保障と交易路の確保を図り、若く才気ある将を大胆に登用した。これにより、宮廷政治と軍事行動が緊密に連動し、迅速な作戦立案と兵站動員が可能となった。対外膨張を支える国内統治は郡国制の運用によって支えられ、戦後の編入地統治にも制度的基盤が提供された。
河西攻略と四郡の設置
霍去病の最大の業績は、河西回廊の制圧により漢の西域への門戸を開いた点にある。ここは天山と祁連山の間を縫う交通の要衝で、匈奴の牧地・補給線でもあった。機動騎兵で補給拠点を連続的に占奪し、斬首や降伏を重ねて敵勢の求心力を削いだ結果、漢は武威・張掖・酒泉・敦煌の四郡を設置し、隊商路の保護と屯田による定住化を進めた。これにより長安から西域への交通は安定し、帝国の財政と外交に新段階が開かれた(長安の国際都市化の素地)。
主要遠征の年次と作戦術
- 前123年:衛青の諸軍に随行し、機動打撃と索敵の実戦経験を蓄積した。
- 前121年:河西で連戦連勝し、匈奴勢力を分断して四郡設置の前提を確立した。
- 前119年:衛青の主力と呼応し、縦深突入で匈奴単于軍を撃破、北方戦線の主導権を掌握した。
これらの作戦の共通点は、(1)偵察と機先制圧、(2)長距離突進による拠点遮断、(3)分進合撃による包囲である。補給は騎兵の機動を妨げるため、現地調達と軽装化を徹底し、敵の背後に回り込むことで士気と通信を崩壊させた。戦後は屯田・関市整備・驛伝の整備で軍事的成果を行政秩序へ転換した。
軍制への影響と制度化
霍去病の勝利は、漢の常備軍再編と騎兵主導の運用理念を確立させた。彼の指揮法は、選抜騎兵・斥候・連絡の三層を明確化し、将軍府の作戦幕僚が地形・天候・補給線を一体で設計する近代的発想を促した。こうした変革は、武帝期の財政・法制改革とも結びつき、皇帝権力の軍事的正当性を補強した。制度面では辺塞の郡県化が進み、辺境統治と軍事駐屯が一体化していく(漢代の政治参照)。
政治的背景―武帝の対外政策
武帝は対匈奴政策を国家目標とし、財政支出や塩鉄専売など経済政策を動員して長期戦を支えた。遠征は外交とも連係し、西域諸国との通交路確保はのちのシルクロード形成に直結する。こうした一連の施策は、楚漢戦争を経て成立した漢王朝(劉邦と項羽の抗争)以来の国家統合を外向きの膨張へ転化させた点で画期的であった。
文化的記憶と墓制
霍去病は前117年に早逝したが、その墓は武帝の茂陵近傍に築かれ、石刻「馬踏匈奴」などの彫像群で知られる。これは敵愾心を象徴するのみならず、騎兵の機動と勝利の記憶を可視化する政治的モニュメントであった。後世の史家は彼を「驃騎将軍」の典型とみなし、英雄的人格と国家目標の一致を讃えた。この記憶は、年号と編年史料の発達とも相まって定着し(例:元狩などの元号)、国家叙述の中核に位置づけられた(暦と紀年は中国の暦法を参照)。
史料と叙述
主要史料は『史記』「衛将軍驃騎列伝」および『漢書』諸伝である。前者は司馬遷の同時代感覚を伝え、後者は制度史的観点から武帝期の軍政・財政・辺境統治を整理する。両者を比較すれば、英雄伝と国家制度史の相補関係が見えてくる。とくに『漢書』は郡県の設置過程・俸禄体系・軍屯の配置に言及し、戦争の成果がいかに行政制度へ転化したかを読み解く手がかりを与える。
呼称・官職と年次の整理
霍去病の官号として「驃騎将軍」が広く知られる。年次では前121年の河西遠征、前119年の決戦、前117年の死去が基点となる。これらの節目は、武帝の中央集権化政策の時間軸・法令改正・財政措置と照応しており、国家の制度史と軍功叙任の連関を確かめるのに役立つ(制度史は郡国制および武帝の項目に詳しい)。
歴史的意義
霍去病の戦果は、漢帝国の領域的安全保障を確保し、対外交易の安定・拡大をもたらした。河西回廊の掌握は国家財政を潤し、軍事技術の洗練は後代の将帥に規範を提供した。英雄的逸話を超え、制度・経済・外交の三位一体改革を促進した点にこそ彼の歴史的核心がある。こうして漢は東アジアの大帝国としての地平を切り開き、中央と辺境を結ぶ一体的秩序を形成していった。