雲揚号|江華島事件の契機となった明治の軍艦

雲揚号

雲揚号(うんようごう)は、幕末から明治時代初期にかけて日本海軍が運用した木造砲艦である。イギリスのアバディーンに所在するホール・ラッセル社で建造され、当初は肥後熊本藩が所有していたが、明治維新後の1871年(明治4年)に明治新政府へと献納された。1875年(明治8年)に発生し、朝鮮開国のきっかけとなった江華島事件の主力艦として知られ、近代日本の東アジア外交における転換点を象徴する軍艦である。

艦の概要と性能

雲揚号は、1870年(明治3年)に竣工した機帆走スループである。船体は木造で、2本のマストを備えたスクーナー型の帆装を持ちながら、蒸気機関による推進力も備えていた。排水量は約245トン、全長は約35.7メートル、全幅は約7.3メートルと、当時の新政府軍が保有していた艦艇の中では小型の部類に属したが、沿岸部での活動や測量任務には適した機動性を誇っていた。主兵装として、前部マスト付近に16センチ砲1門、後部に14センチ砲1門を装備しており、小規模ながらも強力な攻撃力を有していた。

項目 詳細データ
艦種 砲艦(機帆走スループ)
排水量 245トン
機関 蒸気機関・2軸推進
兵装 160mm砲1門、140mm砲1門
乗員 約60名

新政府への献納と国内任務

熊本藩主であった細川護久から明治政府へ献納された後、雲揚号は日本海軍の籍に入った。1870年代初頭の日本国内は、廃藩置県の断行や不平士族による不穏な動きが続いており、海軍の役割は沿岸警備や反乱の鎮圧に重点が置かれていた。1874年(明治7年)に佐賀の乱が発生した際、雲揚号は速やかに九州へ派遣され、反乱軍の動向を監視するとともに、政府軍の兵站支援や通信確保に従事した。この時期、政府内では西郷隆盛を中心とした征韓論を巡る政治的対立が激化していたが、内政重視派の大久保利通らが主導権を握る中で、軍の近代化と組織整備が進められていった。

江華島事件の勃発

1875年(明治8年)、井上良馨少佐を指揮官とする雲揚号は、朝鮮半島沿岸の測量および清国への航路調査を目的として長崎を出航した。同年9月20日、江華島付近の草芝鎮砲台から砲撃を受けた雲揚号は、これに応戦して砲台を破壊し、さらに永宗島へ上陸して守備隊を撃破した。この「江華島事件」は、当時の国際法に照らした日本の挑発行為であったとの指摘もあるが、日本政府はこの事件を外交上の好機と捉えた。翌年には日朝修好条規が締結され、朝鮮は長きにわたる閉鎖政策を改めて日本に対して開国することとなった。

歴史的意義と政府の動向

雲揚号による軍事衝突は、単なる国境紛争に留まらず、東アジアにおける日本の地位を大きく変容させた。当時、軍制改革を進めていた木戸孝允らは、国家の自立のために欧米列強と同等の国際関係を築くことを急いでいた。この時期に施行された徴兵令により、国民軍の形成が進む一方で、海軍力を用いた「砲艦外交」が実践されたことは、その後の日本の対外進出の雛形となったと言える。雲揚号の存在は、近代国家としての主権主張と軍事的拡張が一体となっていた当時の時代精神を反映している。

艦の最期とその後

激動の歴史に関与した雲揚号であったが、その最後は軍事衝突ではなく、自然の猛威によるものであった。1876年(明治9年)10月31日、紀伊半島の最南端に近い潮岬沖を航行していた際、予期せぬ激しい暴風雨に遭遇した。荒れ狂う波浪の中で艦体は制御を失い、紀州阿波島付近の岩礁に激しく座礁した。翌年、損傷が激しく修復不能と判断されたため、雲揚号は現地で解体され、その短いが生涯を終えた。現在では、その歴史的役割を伝える資料が各地に保存されており、幕末から明治へと繋がる荒波を駆け抜けた象徴として語り継がれている。

  • 1870年:イギリスにて竣工、熊本藩の所有となる
  • 1871年:明治政府に献納され、日本海軍に編入
  • 1874年:佐賀の乱へ出動、沿岸警備任務に従事
  • 1875年:江華島事件が発生、朝鮮開国の契機を作る
  • 1876年:紀伊半島沖にて座礁、翌年解体

補足:当時の外交官たちの視点

雲揚号の派遣決定には、当時の複雑な政情が絡んでいた。国内の士族の不満を外へ向ける意図や、清国との勢力圏争いの中で、朝鮮との関係を早期に確立したいという思惑が交錯していたとされる。この艦が残した足跡は、現代における日朝関係や日韓関係の歴史的背景を理解する上でも欠かせない要素となっている。