道鏡|称徳天皇の寵愛を受けた僧侶,法王

道鏡

道教は僧侶でありながら孝謙上皇(称徳天皇)の寵愛を受け、朝廷で権力をもち、殺生の禁止や貴族の墾田の禁止などの政策を推進した。皇位を狙ったとされるが、皇位を得ることはなく、称徳天皇の死後、隅田国に流罪される。764年、隅田国で死去した。

目次

太政大臣禅師ついで法王

道鏡は僧侶であったが、孝謙上皇(けんこう)(後の称徳天皇)の病を癒したことがきっかけに朝廷内で権力を握ることになる。その後も天皇の寵愛と信望を得た道鏡は、政敵・藤原仲麻呂との争いに勝利し、太政大臣禅師ついで法王となって実権を掌握した。

国分寺造営

国分寺造営を促進し、私腹を肥やす国司らを罷免した。その一方で、近親者を多く登用するなど精力的に活動している。

神託

769年(神護景雲3)、宇佐八幡宮から道鏡の皇位をすすめる神託がある。天皇は和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣し、その神託の真偽を確かめさせた。和気清麻呂がもち帰ってきたのは、「天子の位は皇族のみが継ぐことができる」という神託であった。これを偽記策謀とされ、清麻呂は別部蔵麻呂(わけべのきたなまろ)と改名されたうえ、大隅国へ流罪となる。

流罪

道鏡は皇位を狙っていたとされるが、断念せざるをえない状況となる。しかし、称徳天皇の崩御まで、天皇の道鏡への信望が揺らぐことはなかった。称徳天皇が崩御すると、下野薬師寺の別当に左遷させられ、772年(宝亀3)、その地で死去する。

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