衛青|漢武帝を支えた匈奴征伐の名将

衛青

衛青は前漢の名将であり、武帝期に対匈奴戦線を主導した大司馬・大将軍である。生まれは卑賤であったが、姉の衛子夫(後の皇后)の台頭とともに宮廷に登用され、騎兵運用と後方整備を両立させる実務的な軍政手腕で頭角を現した。北辺の防衛から攻勢転換への転機を作り、塞外遠征の常態化、軍制の再編、補給路の整備など、漢帝国の軍事力を構造的に強化した点で、衛青の功績は霍去病の電撃的勝利と並んで評価される。

出自と台頭

衛青は若年期に平陽侯邸の厩舎に勤めたと伝わる。武帝への近侍となると、慎重さと誠実さを備え、姉である衛子夫の政治的後援も相まって抜擢が進んだ。反乱鎮圧や辺境の実地指揮で戦功を重ね、やがて大将軍に任じられる。彼の昇進は姻戚関係の後押しだけでは説明できず、兵站・動員・指揮系統の統合を緻密に進める能力が決定的であった。

軍事改革と戦術

衛青は騎兵・弓騎兵・歩兵・工兵を任務別に編制し、遊撃・主攻・予備の三段構えで運用した。匈奴の機動力に対しては、長距離偵察と連絡体系の強化で奇襲を未然に防ぎ、敵補給の切断を優先する戦略で消耗を抑えた。攻勢作戦では、迂回と包囲を基本に、沙漠・草原での水補給点の確保や、冬季遠征の防寒・馬糧準備を徹底し、兵站の破綻を避けた点が特徴である。

対匈奴戦の主要戦役

  • 河西方面作戦:河西回廊の確保に向けて連続作戦を展開し、防衛拠点の帯状配置を整備した。これにより中原と西域をつなぐ動脈が安定し、後の軍事・交易が促進された。

  • 漠北遠征:大兵力を三軍に分けて進出し、中央軍を率いた衛青は統制と補給維持を優先して持久的に圧力をかけた。霍去病の電撃突破と合わさり、匈奴主力を北走させた。

  • 鎮撫と屯田:遠征後は塞内の空白地帯に屯田・移民を進め、軍糧の自給度を高めて境域支配を固定化した。

霍去病との関係と共同作戦

衛青は霍去病のおじに当たり、両者は役割分担を明確化した。霍去病は精鋭騎兵を率いる高速機動による要所打撃を担い、衛青は主力の統御と兵站、広正面の戦線維持を担う。両者の作戦はしばしば同時並行で実施され、敵の注意を分散させつつ戦果を集積し、武帝政権の北方政策に決定的成果をもたらした。

政治的位置と晩年

軍功により衛青は長平侯に封ぜられ、やがて大司馬に昇る。武帝の信任は厚かったが、彼は外戚としての権勢を誇示せず、慎み深い態度で朝政に臨んだ。晩年は病に伏し、軍政の持続可能性を意識して将帥の層を厚くすることに努めたと伝わる。死後は功臣として礼遇され、その軍政手腕は制度面で長く影響を残した。

制度・後方から見た意義

衛青の意義は、戦術的勝利を超えて、軍制・辺政・補給の体系化にある。塞外遠征を単発の冒険ではなく、季節・地形・補給を織り込んだ再現可能な行動様式へと昇華させた点が重要である。これにより漢は北方に持続的圧力を及ぼし、回廊支配・移民定着・通商拡大という複合効果を獲得した。

史料と評価

『史記』『漢書』は、衛青の寡黙で慎重な人柄と、兵を惜しむ用兵を伝える。華々しい突撃で名を上げた霍去病との対照はしばしば語られるが、国家規模の軍政を支える枠組みを築いたのは衛青であった。彼の遺産は武帝期の拡張政策と表裏一体であり、前漢の版図維持に制度的基礎を与えたと総括できる。

参考関連項目:武帝劉邦項羽垓下の戦い呉楚七国の乱郡国制長安/兵馬俑