第一次世界大戦と東アジア|東アジアに及んだ世界戦争の衝撃

第一次世界大戦と東アジア

第一次世界大戦と東アジアは、ヨーロッパを主戦場とした第一次世界大戦が、遠く離れた東アジアの国際秩序・政治体制・社会にどのような影響を与えたかを考える主題である。戦争そのものは欧州列強間の対立から始まったが、帝国主義体制のもとで東アジアはすでに列強の勢力圏となっており、特に日本中国は戦争の帰結を通じて国際的地位や国内政治が大きく変化した。日本の参戦と権益拡大、中国の主権侵害と民族運動の高揚、植民地支配の強化と再編など、戦争は東アジアの近代史を大きく方向づけたのである。

第一次世界大戦の勃発と東アジアの国際環境

戦争勃発前の東アジアは、列強の帝国主義競争の舞台であった。日清戦争・日露戦争を経て、日本は朝鮮半島と南満州に勢力を拡大し、列強の一員として認知されつつあった。他方、中国は辛亥革命によって清朝が倒れたものの、共和政は不安定で、軍閥割拠の状況にあった。ドイツは山東半島の膠州湾租借地を拠点とし、イギリスやフランス、ロシア、アメリカも中国各地に利権を持っていた。こうした構図のもとで欧州戦争が勃発すると、東アジアも権益の再分配をめぐる競争の場として組み込まれていったのである。

日本の参戦と海軍行動

日本は日英同盟に基づき、開戦直後にドイツに宣戦布告し、連合国側で参戦した。日本軍は山東半島の青島を攻撃・占領し、さらに赤道以北の南洋諸島にあったドイツ領を占拠した。これらの行動は、戦争を利用して権益を拡大しようとする政策であり、戦後の国際秩序にも大きく影響した。日本海軍は連合国側の海上輸送保護にも協力し、国際的評価を高めたが、その一方で権益拡大への執着は、後に英米との摩擦を生み出す要因ともなった。

中国への二十一か条要求と袁世凱政権

日本は戦時の混乱に乗じて、中国の北京政府に対し「二十一か条要求」を提示した。そこでは山東におけるドイツの権益継承だけでなく、南満州・内蒙古における権益の強化、中国政府への顧問派遣など、中国の主権を大きく制限する内容が含まれていた。当時の政権を握っていた袁世凱は、列強からの圧力と国内の不安定さの中で、日本に譲歩せざるをえなかった。この背景には、辛亥革命後の共和政を支えた孫文中国同盟会勢力が十分な実権を持てず、統一的な国家権力が形成されなかったという事情があり、戦争は中国の半植民地化を一層深める契機となった。

戦争と植民地支配―朝鮮・台湾・南洋

日本は戦争期を通じて、朝鮮・台湾・南洋諸島など自らの植民地支配を強化した。朝鮮総督府は治安維持と資源動員を名目に警察・軍隊の権限を拡大し、台湾でも産業開発と軍事的利用が進められた。新たに占領した南洋諸島は、サトウキビなどの農業開発や海軍基地建設の拠点として位置づけられ、戦後には国際連盟の委任統治領として日本の支配が正式に認められた。これらの地域では、戦争協力の名のもとに人員・物資の動員が進み、植民地社会の構造がいっそう帝国中心に組み替えられていったのである。

東アジア経済への影響と日本の好況

欧州各国が戦争に総力を投入すると、アジア市場への輸出や海上輸送から一部撤退せざるをえなくなった。その結果、日本の工業製品や船舶輸送への需要が急増し、日本経済は「戦争景気」と呼ばれる好況を迎えた。他方、中国では欧州列強の影響力が一時的に後退し、民族資本による工業や商業が発展する余地が広がった。もっとも、戦後に欧州の経済力が回復するにつれて国際競争は激化し、日本でも戦後恐慌が生じるなど、好況は長く続かなかった。戦争は東アジアの経済構造を一時的に変動させ、その後の産業化と不安定な景気循環の基礎を形づくったといえる。

パリ講和会議と民族運動の高揚

戦後、連合国はパリ講和会議で講和条件を決定したが、山東の旧ドイツ権益は日本に継承されることとなり、中国の期待は裏切られた。これに反発して中国では1919年に学生・知識人を中心とする五四運動が起こり、反帝国主義・反軍閥・民族独立を掲げる新たなナショナリズムが高揚した。この動きは東アジアのみならず、インドや中東など他地域の民族運動とも共鳴し、帝国主義体制を批判する潮流を生み出した。日本においても、戦後の社会不安やシベリア出兵への不満、米騒動などを背景に、大正デモクラシーと呼ばれる政党政治・普通選挙要求の動きが強まり、戦争は国内政治の変容を促す契機となった。

ワシントン体制と東アジアの再編

1920年代初頭には、アメリカの主導でワシントン会議が開かれ、海軍軍備制限と中国の領土保全・門戸開放が確認された。これにより、日本は南洋諸島の委任統治を認められる一方、山東問題をめぐって中国への権益を一定程度修正することになった。この「ワシントン体制」は、列強が東アジアにおいて協調的に利害調整を図る枠組みとして機能したが、日本国内では海軍制限や対華政策の抑制への不満が蓄積していった。第一次世界大戦は、こうした戦後体制の出発点であり、東アジアの諸国家・諸地域はその影響を受けながら、帝国主義と民族自決のはざまで新たな秩序を模索していくことになったのである。