百済
百済は、古代朝鮮の三国の一つで、馬韓系の諸小国を基盤に前1世紀末ごろ成立した王国である。都は漢江流域の漢城(今日のソウル付近)に始まり、475年の高句麗による圧迫で熊津(公州)へ、さらに6世紀には泗沘(扶余)へ遷都した。対外関係に長けた同国は、中国南朝との冊封・交易、倭との同盟・技術交流を積極的に展開し、仏教・文字文化・工芸技術の伝播に大きく寄与した。660年、唐・新羅の連合軍により滅亡したが、亡命民や技術集団は倭や朝鮮半島各地に広く影響を残した。
成立と遷都の過程
伝承では温祚(温祚王、王都は漢城)を開祖とし、扶余系の王統を掲げて正統性を主張した。建国後、近肖古王の時代に漢江流域を確保して勢力を拡張したが、475年に高句麗の南下で漢城が陥落し、王権は熊津へ移る。聖王の時代には政体の再整備と国際関係の再構築が進み、538年ごろ泗沘に遷都して宮都・官寺の整備を進め、王都機能を刷新した。こうして百済は海上ネットワークを軸に生産・交易・文化の結節点として再生を図った。
政治体制と社会構造
百済の政治は、王権を頂点に、貴族層による合議と官等制によって運営された。最高位の佐平をはじめ、達率・徳率・奈率などの官等が整えられ、軍事・財政・祭祀・外交などの職掌が分化した。地方には方や県を単位とする支配が及び、在地勢力の統合が進んだ。仏教は統治理念と都市計画を支える基盤となり、王都と地方に官寺・塔・僧院が配置された。こうした制度整備は、同時代の中国王朝との交流の中で受容と適応を繰り返しながら形成されたものである。
対外関係と軍事外交
百済の外交は、情勢に応じた多角的な同盟と交易を特徴とする。中国南朝への朝貢により冊封秩序に参入し、威信財や文物の獲得を図った。倭とは軍事同盟と技術交流を重ね、学識僧や工人の派遣、王仁・阿直岐に関わる伝承、七支刀の献上などが語られる。高句麗・新羅との抗争では漢江流域・黄海岸の要衝をめぐる戦いが続き、伽耶諸国との連携で防衛線を築くが、6〜7世紀には唐・新羅の台頭に押され劣勢となった。
- 中国:南朝との冊封・交易で正統性と文物を確保
- 倭:軍事同盟と文化・技術の伝播の要、仏教公伝(538説・552説)をめぐる論点
- 半島内:高句麗・新羅との均衡と対立、伽耶との連携
宗教・文化・技術
仏教は384年に伝来したとされ、王室保護の下で国家的宗教へと展開した。王都の寺院や石塔、金銅仏、瓦・塼などの建築技術は洗練され、文字文化とともに官文書・史書の整備を促した。工芸では金工・玉装・楽器・塼瓦・陶器などが発展し、須恵器や瓦・仏教彫刻の技術は倭へ伝わり、飛鳥期の宮都・寺院造営や造仏に大きな影響を与えた。こうした文化的波及は百済の海上交通と職能集団の移動を背景とする。
考古資料と王都景観
熊津・泗沘域には王都と官寺・城郭・水利・街路の痕跡が集中する。公州の宋山里古墳群や扶余の陵山里古墳群、益山の王宮里遺跡や寺院址からは、王権儀礼・対外交流・工芸生産を示す副葬品や建築材が出土する。武寧王陵の石槨・金製飾や墓誌は系譜・外交・工人ネットワークを物語り、定林寺址五層石塔は同国の石造技術の粋を示す。これらの遺跡群は「百済歴史遺跡地区」として評価され、同国の都市と宗教の総合性が立体的に復元されつつある。
滅亡と遺民の動向
660年、唐・新羅の連合軍が泗沘を陥とし、義慈王は降伏した。だが復興運動は続き、鬼室福信・扶余豊璋らが挙兵して倭の支援を得るも、663年白村江の戦いで敗北した。これにより百済の国政は終息するが、技術者・僧侶・文人の移住により、倭では都城・寺院・造仏・造瓦・製陶・治水などの分野が活性化した。半島でも地域社会に遺民が同化し、地名・氏族・工房の伝統に同国の痕跡が残された。
主要年表(概略)
建国から滅亡までの骨格は以下の通りである。諸年代には文献差や研究上の議論があるが、王都移動と外交環境の転換が同国史の節目を画す。
- 前1世紀末ごろ 建国(馬韓諸国の統合)
- 346年 近肖古王、勢力拡張を推進
- 384年 仏教伝来(僧摩羅難陀の来訪伝承)
- 475年 漢城陥落、熊津へ遷都
- 538年ごろ 聖王、泗沘へ遷都・王都整備
- 6世紀 海上交易と文化政策の進展
- 660年 唐・新羅連合により滅亡
- 663年 白村江の戦い、復興運動挫折
歴史学上の論点
仏教公伝年(538年説・552年説)や王統の系譜、官等制の具体的運用、海上ネットワークの実像、武寧王出自をめぐる解釈などは、文献・考古・自然科学的手法を横断して再検討が進む。とくに百済の都市構造と官寺配置、工房群の立地、流通路の復元は、職能集団の移動と文化伝播のダイナミクスを解く鍵として重要視されている。